海の欠片

わんころがCWのリプレイ置いたり設定置いたりするところです。

回帰 ― 縁 ―

←合

 

 藤堂あかりは菊月澪にもう一つのお願いを要求した。それは、この関係、自分の存在を兵庫県の外の者らに、つまりは東京の友人には秘密にすることだった。
 これに関しては藤堂からの気遣いでもあった。恋愛関係が拗れて恋愛に強い不信感と嫌悪感を抱く彼に、勘違いさせる関係を伝えてしまえば彼が大変な思いをするだろう。幸い、彼女は秘密をロマンチックに捉える性格だ。隠し事はストレスどころか楽しむことができる人間だった。
 勿論菊月にとってもこれは好条件だった。嘘をつくことはすっかり慣れた。笑顔で嘘を吐き、都合のいい言葉を信じさせる。東京で過ごす彼にはとても誠実という単語は似合わなかった。突然悟り歪んだ答えを出した彼を、少なくとも2人ほど良くないと思っていたようだった。が、そんなもの菊月の知ったことではなかった。


「あたしは普段『ええ子ちゃん』を演じとんねん。皆はそれしか知らんし、あんたから見たらあんたの知らんあたしの裏側になるんやろな。
 虚狼おったらいくらでも潜入調査できるんやろ? 知りたかったらいつでも覗いてええで。別に見られて困るもんでもないし」

 出会って数日後、藤堂が菊月に話した。自分が裏のある人間だと主張したそれは、自分を疑ってどうぞと手を広げ、菊月に身を委ねているようでもあった。

「疑われて嫌やろって? なんでなんで?
 ちゃんと知ろうって思われとるってことやん。あたしは嬉しいで!」

 秘密主義な人間は、秘密を暴かれることを嫌う。そもそも疑われて気持ちのいい人間はそういないだろう。
 感性が少しズレていた彼女は、秘密や裏を暴かれることさえも楽しんでいるようであった。意地悪にけらけらと笑うそこに一切の嫌悪感はなかった。夏の太陽の眩しさにも負けない明るさで、一切の暗がりを取り払おうとしているようだった。



 そうして8月始めの頃のこと。藤堂の学校では夏休みの午前中に夏期講習が行われるため、休みであっても学校での過ごし方を菊月は調査しに行くことができた。虚狼の力を使えば姿や音は消せるため、誰にも気づかれることなく潜入することができる。
 嘘をついていると思って裏を暴こうと思ったわけではなかった。疑っているとすれば、何になるのだろう。学校に潜り込む前に、姿を消した状態で一度考えた。本来の自分とは違うと伝えられていて、それを調べて何になる。己の嘘を語る姿は、猟犬が尻尾を振りながらアナグマの居る穴を示しているようにも思えた。
 あぁ、と納得した声を上げる。彼女は探ってほしそうにしていた。疑われることを是としていた。疑っていいよ、ではなく、ここに嘘があるから疑え、と。受け入れられないものはそれでよく、不信を持って疑ってもいいと自分の心を受け入れてくれたあきらの解答とは違う。疑うことは必要なことで、長い付き合いになるそれと上手く付き合う必要があると諭した英志の解答でもない。ひかりにとって、嘘や虚は娯楽だ。その心を持って、自分の不信を肯定しているのだと理解した。

(思いっきりうちに願っとるやんけ)

 けれどそれは約束ではなく、暴いてもいいと自身に選択権を与えられた。強制ではなく、可能だ。暴かずとも彼女は気にしないことだろう。
 やり方としては呼に近いのだと思った。自分が精神的に酷く傷ついていたとき、彼はお互いが他人であることを利用して深入りしてきた。他人であるから疑心を向けてしまうことは仕方がなく、同時に傷つけて縁が切れたとしても他人でしかないためダメージも少ない。今回のこれも、幼馴染ではあるが疎遠で他人に近く、お互いに知るための一環でしかないのだろう。
 こつりこつり、廊下に響く足音は誰にも聞こえず、見知らぬ人影はどこにも見当たらない。意識しかないのだから堂々とすればいいというのに、足音を消して息を殺し慎重に歩く。如月学園の半分くらいの規模の、転向する前と同等の規模の廊下。高校に入学した当初はあまりの長さに心底驚いたが、今ではとてもこじんまりとしていると感じた。
 干渉できずともすり抜けることはできる。跨ぐように閉じられた教室のドアを潜り、賑やかな教室の後ろへと立った。目当ての人は探すまでもなかった。10人ほどが藤堂の机を囲み、談笑していた。

「すまんあかり! 補習聞いてもようわからんかってん! 後で教えてくれへんか!?」
「えぇ、大丈夫です。それでは午前の補習が終わって各自お昼休みを取った後……13時半から開始しましょう」
「わ~! 助かるありがと~! ほなその時間からよろしくな!」
「ずるい~! あたしも混ぜて! ここ分からんからここの解説もついでにやって!」
「いいですよ。では参加者の方々、それぞれ分からない場所を教えてください。1時間程度の勉強会にしましょうか」

 そこにいる藤堂は別人だった。
 控え目な性格で上品な言葉遣い。だからといって冷淡な印象はなく、穏やかで心優しい女子高生といった印象を受けた。少なくとも東の元で会った明るく快活な女の子はどこにもいなかった。
 例えば社交的で可愛いらしく、誰とでも仲良くなれる智紗のそれはなりたい自分の演技だった。親友のようになりたいからと、臆病さを隠して幸せになるための努力だった。
 日常に嘘をつく。誰もが裏の顔を持っている。それは怪異や咎人を拷問し情報を吐かせる機関に居るだとか、呪術を恣意的に利用するために利用されているだとか、咎人を殺しまわる狂気にも似た博愛だとか。
 知って、裏切られたような気持ちになったか? そう藤堂に問われているような気がした。彼女にとっては教室で振る舞う人格は嘘でできている。自分の快楽のために行われるそれは、縁に不誠実と……本当に、言えるのだろうか?

 簡単な話だ。
 裏を知っても、あるいは裏から表を知っても、誰にとっても大した問題ではない。
それは至極、些細なことだった。
 藤堂あかりは『必要のない』嘘つきだった。



「何であんなことしょんの?」

 その日の夕方に、東の元へ手伝いに行こうとする藤堂の元へ現れ、尋ねた。町から山の麓へと向かう道にある民家はさほど多くない。畑や田んぼが多く、日が暮れたその道はカエルや虫の鳴き声が賑やかだった。
 ほんまに来てくれたんや! と心底嬉しそうな笑顔を見せるものだから、思わず眉をしかめてしまった。少なくともそれは、秘密が暴かれた者が浮かべる顔ではないように思ったのだ。それを見て藤堂は面白おかしそうにしながら東の診療所へと歩を進める。

「だってかっこええやん。裏の顔を持った人間って。
 めちゃくちゃ大人しいやつって思とったら、裏で怪異と戦っとるとか。おどおどしとって臆病なやつ思とったら、人のために頑張るときはめちゃくちゃ強気になれるとか」
「うちはそうは思わへんよ。
 人の裏の顔は恐ろしい。見えるもんが全てやないし、思いもよらんどす黒いもんを抱えとることもある。それを誰かに見せへんだけで、あるとき急に自分に牙剥いて襲い掛かってくる。これがお前の信じようとしたもんの本性やって、残酷さを突きつけてくる」

 そうして襲われたときに傷つかんために、人は信じん方がええんや。
 こつ、こつ、賑やかな夜道に靴の音が響く。生き物の叫びと比べると、それはほんの些細な音だった。何百何千という命の声を耳にしても、ここに住まう者らは何も気に留めないのだから。たった二人から響く音など道に転がる小石同然だ。

「あたしの裏側知って傷ついたか?
 あんたに牙剥けたか? 失望したか?」

 分かっているくせに、尋ねた。
 不意に藤堂が足を止める。それにつられることなく、菊月は数歩前に出た。眼鏡を外して振り返る。青錆色の瞳に、純度の高い黄金色が宿った。

「あかりの言うとんのは、裏側とちゃうやろ。
 どっちも自分で肯定できて、楽しんでおれる。表側が2つあって、裏側は退魔師の自分。皆に決して明かせへん、怪異と戦う残酷な部分。人が聞いたら恐ろしい言うわ」
「あんたは恐ろしい思たか?」
「少なくとも、しょーもない理由で命がけの裏社会に足突っ込む無謀さが怖いわ」

 そうして青錆色を隠すように前を向いて、歩きだす。
 一度二度、誰にも映らない黄金色が瞬いて、夜闇に消えた。

「しょーもなくないよ」

 それはそれは、どこまでも穏やかな声調だった。

「忘れさせられても、憧れは消えんかってんもん。
 何も見えんはずの暗闇の中に見えた紅色が、何よりもかっこよかってんもん」

 嫌にはっきり聞こえた言葉に、思わず菊月は足を止めた。
 消えた黄金色が再び姿を現す。カア、とカラスが一度だけ鳴いて、世界の暗さを実感した。

「あんとき、助けてくれてありがとう。
 あんたが助けてくれんかったら、下手したら熊あたりに襲われとったかもしらん。夜の野生動物は怖いからな」

 それは、唯一自分から切り離した縁だった。もしも切り離さず、記憶の消去も頼まなければ。もしも彼女との縁を大切にできていれば。そんなもしもなど、いくら考えたところで無駄だというのに。
 望んだものを諦めた。退魔師であることを隠すため、普通の日常を手放した。されど異常には至らず、日常の片隅に居たに過ぎなかった。菊月澪が退魔師となって見てきたものは、退魔師の暮らしではなく普通の人間の普通の暮らしだった。
 非日常側の人間でありつつも、日常側の人間だった。霧山や伊藤、上矢、影宮など、クラスで関わる多くの者は非日常側の人間だった。自分は非日常側の人間だと思い込んでいた日常側の人間だった。
 そうして思い出す。模擬戦を見たときに感じたものを。かっこいいすごいといった感心の声や、参考にしようと熱心に勉強する者の声ばかりだった。
 恐怖心を抱き、目を逸らしたのは自分だけだった。
 黒い羊の群れに居た、白い羊と思い込んだ黒い羊は、白い羊の中に紛れることはできなかった。
 どうしようもなく、自分は非日常側になれなかったのだと思う。

「な? しょーもなぁないやろ?」
「……、……しょーもないよ」

 は、と息を吸う。強く強く拳を握りしめていた。
 逃げるように足が速まる。異能のせいで走ることができないことが恨めしい。走れたならば、今すぐにでもここから逃げ出して、姿を晦ませるというのに。
 転移すればいくらでも手段を使わなかったのは。

「っ澪! おる!」
「澪! 怪異の匂いだ、このまま進んだ山の中に居る!」

 藤堂と影狼が同時に叫んだ。
 菊月は呪力の全てを影狼たちに任せているため、呪力を読むことができない。対して藤堂は自身が呪力を持っているタイプで、退魔師になって半年といえどそれを読むことができる。
 話は後と藤堂は走り出そうとする。山の中であれば人目につくことはほぼない。町に出してしまえば被害は目に見えているため、できれば発生した位置で仕留めたい。

「……あかり、いけるか? 影狼ん乗って一緒に距離詰める」
「モチのロンや、何のために退魔師んなった思とんねん」

 ここから1キロメートルほど先の、診療所より先の道を進んで本格的に山に入った場所に気配がある。影狼に乗って走らせればすぐにたどり着く。影狼はともかく、藤堂がこの距離で気づくほどの呪力を持っていると考えれば少し手ごわい相手だろう。
 藤堂は菊月の戦い方を東から聞いているが、菊月は藤堂の戦い方を何も知らない。残していくことも視野に入れたが、確実に彼女は後を追ってくる。そもそも無謀なことをするつもりもなければ、成すべきことは怪異退治。そこに私情を持ち込むべきではない。

「影狼頼む。虚狼は念のためうちらの姿を消してくれ」

 夜に山の中へ入る人間はいないとはいえ、見つかれば一瞬にして町中に噂話が流れる。田舎は横の繋がりが強く、不審なものを見かければすぐに噂となり広められる。警戒するに越したことはない。
 姿を消した状態の狼がウォウ、と一つ鳴けば2人と1匹の姿も透明になる。あくまでも周囲から存在を隠し、菊月と藤堂、それから狼同士では認識できる状態だ。影狼が立体となり地上に黒い塊として現界すれば、二人はそれに飛び乗り、怪異の元へと向かった。
 山へ入れば木々が迫り、彼らを避けるように流れていく。生き物の声をかき消す、空気を切る音。消した存在は山の中に足跡一つ残さない。木が掠めようがぬるりとすり抜け、気配のする方へと四肢を動かす。
 ほんの数分でたどり着いたそこには、5メートルはあるだろうか。犬に似た四つ足の獣のような怪異が地面を嗅いでいた。糧になる人を探しているのだろう。幸いなことに、生まれ出でたこの山に人の出入りは殆どない。あるとすれば、山の持ち主か、退魔師となった自分たちが哨戒に立ち入るかだ。

「澪、うちは前線に出て戦うタイプの退魔師とちゃう。狙撃とか、そういう力や。
 せやから動く必要はある。危なかったら助けてくれな」
「分かった、影狼に前張らせるから後ろで戦うてくれ」

 姿を消した状態での干渉は不可能だ。背後に回り、影狼から降りれば奇襲の準備をする。荷物となる通学鞄は茂みの中に隠しておいた。
 菊月は右手を前に伸ばし、影狼をいつでも走らせられる構えを。藤堂はポケットからあるものを握りしめ、右手の人差し指を怪異へと向け、親指を立てて銃の形を作る。その構えで何を行うつもりか菊月は察することができた。

イチローみたいなもんなんやな」
「知らん奴の名前出てきたな。銃使いか? 多分、予想通りで予想外な呪術やで、見とけよ」

 肩を並べて、一瞬だけ藤堂は菊月を見た。
 瞳は青錆色のままだった。静かで冷酷に、目の前の獲物を睨みつけ。声を合図として虚狼が呪術を解いた。

「やってまえ、影狼! 『影爪』!」
「夜の花に見とれて酔いしれろ! 『一分一凛』!」

 どぷりと影が形を変える水にも似た音に、ヒュルルという発砲音。怪異が気づいたと同時に影の爪が肉を抉り、弾がその傷の中へと潜り、弾けた。
 パァン!! と肉が弾け、焦げる。破裂の残虐さ以上に一瞬の焔の美しさに目を奪われそうになった。

「見さらせ、あたしの呪術、『百火繚乱(スパークルバレット)』!
 闇夜に輝く美しさが月と星だけやと思うなよ!」

 藤堂の呪術は至極単純だ。金属片を消費し、呪術で花火の銃弾を打ち出すもの。手の内に金属片を握りしめ、呪力を込め発砲する。単純な呪術であるが、金属の組み合わせや量によって効果や発砲速度が変わる応用性の高い術だ。
 単純な呪術故に身体や精神的代償は発生しない。呪術で水の中でも発動できるようにできており、術に影響をもたらす要因は少ない。呪術と金属片があれば、安定して一定の効力を常に出すことができる。

「音から何まで、マジモンの花火やんけ」
「せやろ。呪力もやけど、金属片ないなったらなんもでけんくなるからな。
 さっさとケリつけんで!」

 この程度の攻撃で倒せる怪異ではないとは分かっている。怪異がぐるり、こちらを向いてだらりと舌を垂らした。ぼたぼたと涎を零し、明確な『食欲』をこちらへと向けてくる。
 どちらも後衛に立ち戦う呪術だ。影狼が後ろを許してしまえば、お互いに一たまりもないだろう。

「核は顎下の首元か。あたしが核ぶち抜くから時間稼いでくれ!」
「分かった。影狼、こっちにそれを通すな! 虚狼はあかりのサポートして、儚狼はうちの障壁になれ!」

 3匹の狼を使役する。牙を向け食らおうとする怪異に影狼を応戦させる。動きも犬に似ていて予測しやすい。儚狼には結界を展開させ、怪異からの攻撃から身を守らせる。虚狼は藤堂の姿を消し、発砲タイミングに合わせて術を解かせる。

「―― !!」

 抉れ、焦げた部分が再生する。痛みに怯む素振りもなかった。痛覚の類はないと見るべきだろう。ならば、と菊月は右の掌をを広げ、上に向けてぐるりと捩じる動作をする。

「縛ってまえ! 『影縛』!」

 地から天へ、狼は鎖と姿を変え伸びる。怪異を縛り上げ、首元を晒すように固定させる。磔にされた怪異は暴れ、拘束を解こうとするが藻掻けば藻掻くほど、鎖は身体へと食い込んでいく。
 やれ、と言わなくとも狩人はすでに銃口を核へと向けている。金属を溶かし、装填が終われば発声と同時に世界へと姿を現した。

「強めにぶち抜け! 『四鳥別凛』!」

 四連、銃弾を撃ち込む。一点に重なるように上がる花火は一つずつ威力を増し、四発目には爆発にも似た大輪の花を咲かせた。
 四鳥別離。親子との悲しい別れ。怪異に対して慈悲もなければ罪悪感もない。ましてや親でもない。この世へ別れを告げる様を模して、血の色のような赤一色で構成した。
眩しさに眩む。怪異を殺す暴力が、どこまでも美しい。怪異の欠片一つ残さず、刹那に散る花と共にそれは焼け焦げ

「ガアアアァァァ!!」
「うおぉっ!?」

 て、いなかった。
 怒りのままに暴れ、力で影狼の束縛を解くとそのまま藤堂へと牙を剥き、突進する。藤堂の術の欠点は準備が必要であるため、咄嗟には使えず打ちに弱い。
 幸い警戒を解いていなかったため、寸前のところで横へと跳ねて回避することができた。地面に転がり、受け身を取る。すぐにポケットから金属片を握り、距離を取るために打ち込む。

「ち、『二凛火山』!」

 ポケットに入れている金属片はそこまで多くはない。学校生活を送る上で邪魔にならず、違和感がない量しか持ち歩くことができない。代わりに鞄の中には充分な量の『弾』を入れているのだが、目の前の怪異は弾を補充するスキすら与えない。
 けん制のために青色の花火を撃ち込む。炎のように燃え上がらず、代わりに雪が舞い、凍てつき地面へと縫い付ける。怪異は荒々しく吠え、氷から逃れようと再び暴れる。バキバキと氷にヒビが入り、自由になるのも時間の問題だった。

「澪様、あかり様!
 先ほどの核の位置はまやかしです、本来の位置は体内……心臓部にあります!」

 嘘に敏感な白い狼が吠える。藤堂が貫いた見せかけの核はすっかりと再生していた。
 この怪異に知性こそないが、強靭な再生能力と単純な身体能力は厄介だ。弱点を偽装していたことも、人間が狙う場所を理解し生物的に進化した故だろう。
 厄介極まりない。二人の手に負える怪異ではない。藤堂はすぐに鞄を隠した茂みへと走り、その中からベルトポーチを取り出す。氷から抜け出そうとしたところを、影狼が影に対して食らいつき、さらに時間を稼ぐ。町へ駆け出す可能性を考慮しすぐに奇襲をかけるべきでなかったと舌打ちし、再び怪異と向き合う。

「あかり、こいつをここでやんのは二人やと荷が重いわ」
「やっぱそうよな、すぐに東先生に連絡取って増援頼むから」
「せやから今からうちが『本気』出す」

 
何を、と問うたが聞こえないフリをされる。
 短く息を吸い、長く息を吐く。目を閉じ、胸に手を当て拳を作り……ドクン、と身が跳ねた。

「ぅ、お、あああぁぁぁぁっ……!」
「お、おい澪、なんしょん!?」

 激流となった血が身体を巡る。高揚する意識。ふ、ふ、と小さく短い息を何度も何度も繰り返す。
 藤堂から見たそれは、獣への変貌だった。
 瞳の色が変わる。それはあの美しかった紅色ではない。
 憎悪に堕ちた、濁った赤褐色の瞳。
 それに呼応するかのように狼が遠吠えをする。3匹の狼が集まれば、ゆらり腕を上げた。

「―― お前のせいやぞ、クソ犬。
 そう、お前のせいで、怪異のせいで、人間のせいで、オレはこないにしんどいんや。死んで、償え」

 
……あれは、誰だ? あそこに知らない人がいる。
 背筋が凍った。理解を拒んだ。そこに知らない人間が居て、知らない怪異を連れていて、さっきまで戦っていた怪異が対峙していて。自分は今茂みに隠れている状態で。
 澪は一体どこへ行った? すぐに戦いの場に戻らないと、澪が帰ってこなくなる。殺される。
 頭が警告を発する。されど身体はそれを無視し、硬直を選ぶ。動けずにいると、黒い狼が怪異の首をもぎ取り、地面へとたたきつけた。そのすぐ白い狼が再生するより先に首の中へと喰らいついて、肉を引き裂いていく。

「アァアア゛、ガ、ァァアアアッッッ!!」

 ぶちりぶちり、ミチミチと破壊と再生が同時進行される音。もげた首が何か叫んでいる。そこに情など沸きはしない。壊れたラジオテープのような雑音にしか感じない。
怪異は恐ろしくなかった。そう、怪異は恐ろしくないのだ。

「ふ、は、あはは、はは、あははははははっ……!」

 その光景を見て、楽し気に笑う人間が恐ろしい。
 ……東が言っていたことを思い出す。呪術の中には精神的要因が強く影響するものがある。藤堂や東のものは殆ど影響がなく、安定した呪術を行使できる。それは良いものに聞こえるが、藤堂は退魔師向きではないと思った。
 感情により、いくらでもブレる呪術。感情的になればなるほど力を発揮する、意志や感情すらもリソースになるそれは、とても人間らしく愛おしいと思った。菊月の使役はまさにそれだ。心や記憶を食らい、狼は強く在る。そして本人も食われる以上の心を与えるから、彼らは本来以上の力を発揮する。
 そうして彼は戦ってきた。今も変わりはしない。瞳の色が変わるのはその証拠だ。
けれど、あぁ、あんなに破滅的で恐ろしい心を武器とはしていなかった。かつて怪異に殺されそうになっても、怪異に対してその武器は手にしてこなかった。怒りを正しく力に変えられる人だったのに。


―― バキリ。

「――――ッッッ!!」


 そう、ガラス質の音が響いて。獣の断末魔が響いて。
 肉を貪る生々しい音は聞こえてこなくなった。
 そこにいた人間は笑っていた。
 それが、今の彼の裏側だった。



→奇