海の欠片

わんころがCWのリプレイ置いたり設定置いたりするところです。

小話『明日天気になあれ』 上

※ペットショップコンバート宿のアサッティとドドンパの邂逅話です
※最初にネタバレするんですけどドドンパの本名はスージーです
※>>全然小話じゃない<<

 

 

木々は凍り付き、時が止まってもう何年経つだろうか。雲が立ち込めているというのに、月明りは不自然なくらいにさあさあと降ってくる。雪が、氷が、月光を受けて煌めいて、人工の光源などないのに街のように輝いていた。
雪が叩きつける。ビュウビュウと強い音を立てて白銀のそれを攫い、天から、地から、森に居る者らへと牙を剥く。とても人間が生きるには向いていないここ、樹氷の森では僅かな生物とそこそこの魔獣が暮らしていた。
そんな月明りが不自然に美しい夜のこと。ぱっと白の中に赤が舞った。人ならざる者の領域に踏み込んだ人間が、魔獣の餌食となった。ここではよくあることだ。同時にその逆もまた然りだった。
樹氷の森の中には、雪に閉ざされながらも太陽の光が照る場所がある。森の外からやってきた人間がそこに王国を築き、暮らすようになった。人口こそ少ないが王国の土地は広く、厳しい環境には変わりなかったが、人々はそれに屈することなく逞しく生きている。
人間と魔獣は共存関係とはいかなかったが、お互いに『居てもらわなければ困る』存在ではあった。人間にとって力の弱い魔獣は牙や皮を得るための狩りの対象だが、強い魔獣の前には喰われるしかなかった。魔獣は喰らった者の力を取り込む性質があり、人間は『知』を得るための獲物だった。魔獣は森の魔力だけで生きていけるため、飢え死にすることはない。一方で魔獣が増えすぎると、森の魔力が枯渇しバランスが崩壊する。それを知っている賢き魔獣は、王国を襲うことはなく静かに森の奥か、あるいは森を出て好きなところへと去ってゆくのだ。

 

「おや、魔狼が生まれるとは。長らく強い魔獣が生まれないと思っていたが、お前が生まれるためだったのかねえ」

 

巨大な身体にがっしりとした四肢。長い毛を持ち、毛の先端は体内の魔力によって蒼い光を放っている。ピンと立った耳に長い尾、獲物を狩るための長い牙に爪。雑多な魔獣の中で、『魔狼』と固有種族名が設けられるほど、それは力を持った魔獣であった。
その魔獣に拍手を送る女が一人。氷のような髪に、真っ白な肌。20代後半ほどの見た目で、一切の熱を持たず、触れるものを全て凍らせてしまうのではと錯覚するほどだった。
魔力の豊富な自然豊かな地には、魔女が自然発生する。彼女は樹氷の魔女と呼ばれる、古くからここに暮らす森の管理者であった。くつくつと笑いながら、5メートルはあろうかという巨大な狼をじいと観察する。

 

「3人、喰らったね。私の言葉は分かるかい?」
「……分かる。……君、誰?」
「私はこの森の魔女だ。魔女は自然の権化だとか、森の管理者とか、色んな呼び名があるね。ま、好きに呼んどくれ」

 

ふぅん、と魔狼は不思議そうに魔女を見つめる。襲われるとは考えていないのだろうか。襲って食ってしまおうか、とは考えられなかった。自分に害になるとは思わないし、何より先ほど喰らった人間のように、美味しそうとは思えなかったのだ。

 

「賢き魔狼よ。もしこれから分からないことがあれば私を探しなね。暇を持て余した魔女は、いつでも来客者を歓迎するさ」
「……まるで、そうなるって……分かってるみたい」
「そりゃそうさ。お前のような魔獣を一体何体可愛がってきたと思っている。お前ほど強いやつはそういなかったけど、皆決まって知りたがりになるのさ」

 

今は分からないだろうけどね、と大笑いをする。猛吹雪の中でもよく通る声だった。狼は分かったのか分からないのか、首を傾げながらこくり、頷いた。
探せば見つかると、魔女は言った。住居はあるが、決して侵入できないようにしている。魔女が死ねば、森は死ぬ。寝込みを襲われるのが一番危険だからねえ、とまた笑った。だから名を呼ばれ、探されたときに自分から向かうそうだ。
自由に生きてみるといいさ。生まれたばかりの子供への案内は終わりだと、魔女は一言残して、氷雪の闇へと消えていった。魔狼はぐるる、と唸り、雪を蹴って月が沈むまで森を駆けた。
朝日が昇れば短い眠りについて、何かを探すように森を放浪する。雪の降らない穏やかな日もあれば、あらゆる命を眠らせるような荒れた日もあった。
魔狼には、何を求めているのか分からなかった。

 

  ・
  ・

 

「居たぞ! 追え!」
「あれは生かしておけば人間に害になる! 逃がすな!」

 

朝日が一番苦手だった。この森の夜に生きる魔獣にとって、朝日は闇を払う浄化の光だ。雲一つない銀世界に差し込む朝日は、光が乱反射し酷く眩しかった。光から逃れるように影で眠りについたと同時に、足からザシュッ! と音が鳴った。矢で射貫かれた、と気づくには数十秒かかった。
魔狼にとって、この程度は『かすり傷』であった。人間はすぐにどうにでもできるが、目に刺さる朝日がたまらなかった。足を引きずりながら、影になる場所を探す。あるいは日が昇ってしまうその時間まで逃げ切ればいい。日の光も得意ではないが、朝日と比べれば遥かにマシだった。

 

「あっちは王国側だ! 王国に入れるな!」
「大丈夫だ、城壁がある! あの高さがあれば超えられまい、そのまま追い込んで仕留めるぞ!」

 

高い城壁があるとはいいことを聞いた。人間が追い立てる場所へとあえて向かう。追い打ちのようにグサリ! と何かが刺さる音と共に身体に鋭い痛みがいくつか走る。巨体であるが故、矢を雑に放っても身体のどこかには刺さった。
痛い、けれど、やはり魔狼にとっては人間が紙で指を切った程度の痛みだ。ぽたりぽたりと血が流れることも、刺さった矢も気にせずに走る。そうして高くそびえたつ壁が見えて、なるほどこれが人間の言っていた城壁か、と見上げた。魔狼よりもずっと高くそびえたつそれは、魔獣だけではなく吹雪から街を守る役割もあるのだろう。
城壁の傍で身を翻し、人間と対峙する。追い詰めたぞ! だとか、ここで殺してくれる! だとか、嬉しそうな声を上げる。それが朝日よりも心底不快で、魔狼は大きく口を開けた。

 

「死ぬのは、そっちだよ」

 

そうして、2人を丸のみにした。すぐさま得物を剣に変えて斬りかかろうとした1人を、剣を振るう前に飲み込んだ。都合が悪くなって逃げ出そうとする人間が2人いたから、それも喰らった。
ほんの一瞬のことだった。あれほど煩かったのが、しんと静かになった。あぁ、こんなに弱いのなら、朝日から逃げなくても良かったかもしれないな、とぼんやりと考える。

 

(……眠たい)

 

人間の住処を脅かす気はないため、森へと戻ろうとする。痛み以上に眠気が襲ってきて、結局森の入り口でふあ、と大きく欠伸をして身体を丸めて二度寝を始めた。雪の降らない日はしんと鎮まりかえり、何の雑音も聞こえない。すぐに深い眠りへと誘われた。
……が、結局それも2時間くらい後に起こされることになった。

 

「…………いっづ!?」

 

怪我の痛み以上の痛みに無理やり意識を覚醒された。弓のような鋭い痛みではなく、日の光に焼かれるような、熱を帯びた痛みだった。思わずびくり、と身体を跳ね上げると、きゃっ!? とすぐ傍で子供の悲鳴が聞こえてきた。

 

「ご、ごめんね!? 痛かった!?」

 

金色の長いふわふわとした髪も、真っ白なブラウスとスカートも、柔らかそうな肌も、全部が血で汚れていた。サファイアのような瞳と真っ赤なカチューシャが特徴的なその子の傍には、同じように汚れた矢が10本以上置かれていた。
魔狼は立ち上がり、牙を剥こうとするも、上手く力が入らずにそのままどさりと崩れ落ちる。ここで初めて息が詰まるような、身体の中で得体の知れない何かが暴れているような不快感を自覚した。

 

「……なに、した、の……」

 

お前がやったのか。魔狼はぎろりと睨むが、少女はふるふると首を横に振った。死ぬ痛みではない。暫く眠れば治る。直感であるが、間違いないと魔狼は確信する。それでも目の前の人間が殺そうとしてくるのならば、話は別だ。喰らわなければ、と頭を持ち上げようとするが上手くいかない。

 

「多分、太陽の神様の力で清めた銀の矢じりだと思うの。この森の魔獣にとって、銀も太陽神様のお力も毒だから。
 傷を塞いだら、どうにかする。だから……苦しいと思うけど、我慢してね」

 

喰らう前の人間の表情を思い返す。害意を向け、追い詰めたと勘違いして歓喜の声を上げた。それがあまりにも不快だったから全部食った。それが目の前の少女はどうだ。こうして自分が正しく追い詰められているというのに、苦しそうに顔を歪めているのだ。
どうして、の魔狼の疑問は再び襲った身を焼くような痛みにかき消された。少女が両手を合わせて祈ってから、傷に手をかざす。痛みに思わずウゥ、と唸り声を上げるが、その痛みは怪我と共にすぐに引いた。

 

「どう? 足、もう痛くない?」
「…………、……痛くない」

 

怪我をしていた足を動かす。嘘のように元通りに動く。よかったぁ、と安堵した表情を浮かべながら、次の傷を治すと背中側へと移動していった。傷を治されるたび激痛が走るのか、とうんざりしそうだったが、動けない以上魔狼は少女に身を委ねるしかなかった。

 

「魔獣には神様の力はやっぱり痛いよね。ごめんね、痛くないようにできたらよかったんだけど」
「…………何で、謝るの?」
「何でって……だって、痛くない方がいいでしょ? とっても苦しそうだもん」

 

その後も痛みを伴う治療を施されていく。終わる頃には痛みこそなくなったが、疲労感と神聖なる毒でぐったりとしていた。少女の方も法力をここまで使ったことはないのだろう、肩で息をしながら魔狼にもたれかかっていた。
元気になれば喰われるかもしれないのに。動けないから何もしないだけかもしれないのに。本能のままに食った人間は、魔獣を狩って帰るところだった。先ほど食った人間は、自分を殺そうと襲ってきた。

 

「……食われない、とでも思ってる?」

 

少女の行動理由が分からなくて、ついに魔狼は尋ねた。
息を整えながら、魔狼の瞳を見る。柔らかく微笑んで、答えた。

 

「私は王族だから、きっと美味しくないよ。
 王族は神様の血を引いてるの、だから毒になっちゃうよ」
「王族でも、人間は、人間。……なんで助けた? 見返り? 名誉? それとも同情?」
「そうだねえ……立場的に答えるなら、『我らは賢き獣には敵わぬが、賢き魔獣は人を襲わぬ。故に襲う理由を排除し森へとお帰り願え』。一人の人間として答えるなら、『力のない魔獣には痛覚も心もない。けれど賢き獣は痛覚も心もある。苦しんでる誰かを助けるのは当然』。
 だけど……私個人の理由は……」

 

もたれかかっていた姿勢から半回転して正面からぴったりと身体をくっつけ、魔狼の長い毛に顔をうずめる。顔を隠してしまって、その表情を見ることはかなわな

 

「あなたとっても可愛いんだもん! わんちゃん! わんちゃん可愛い! ねえ! ねえ! 元気になったらぎゅーってしていい!?」
「……え、えぇ……?」

 

あっ無類の犬好きでしたか。そうでしたか。魔狼を全然怖がらないなー人間魔獣怖くないのかなーって思ってたけどなるほど、犬でしたか。なんなら許可する前にぎゅーってしとるが。

 

「…………いいけど、そのくらい」
「ほんと!? やったーーーありがとう!! もふもふふわふわ!! 可愛いーーー!!」

 

あれおかしいな元気になったらって言ったよね? 何でもうすでにぎゅーってしてんだ? フライングもふもふハンティングしないで?
あの、と異議を申し立てようとしたそのときだった。身体から毒が抜けたのか、苦しさが無くなっていた。何かをされた覚えもなく、魔狼は二度三度ぱちぱちと瞬きをした。お構いなしに少女は暫く顔を埋めていたが、やがてはっと我に返り、ごめんねと手を合わせてから説明を始めた。

 

「私と同じ霊力だったから、私の中に吸収したの。だから先にぎゅーってさせてもらっちゃった」
「……魔力譲渡の、逆で……それを霊力でやったんだ……」
「うん、あなたには毒でも、私には力になるから」

 

治療終わり、と魔狼の身体から離れる。魔狼も巨体をがっしりとした四肢で持ち上げ、その場でくるりと回ったり、確認できる傷跡を見たりして異常がないことを確認する。
法力は確かに魔獣にとって毒である。しかし法力によって行われる治療は魔獣にも効果がある。彼女の治療は一時的な回復能力の活性であるため、力そのものこそ毒になるが、効果自体は肉体がある以上発揮するのだ。

 

「……ごめんね。私たち人間が、身勝手に攻撃をしたせいで」

 

そうしてぽつり、彼女は魔狼に謝罪の言葉を漏らした。
魔狼はやはり、子供が謝る理由が分からなかった。

 

「僕は、君たち人間を食ったよ。でも、謝りなんかしない」
「うん。それでいいよ」

 

少女は正面に移動して、マズルに両手でそっと触れる。両手をいっぱい広げても、鼻先を包む程度の小さな両腕だった。食べてください、とでも言いたげな行動に、魔狼は目を細めた。

 

「賢き獣は自ら人間を襲わないって、知っているもの。兵の皆もそう教えられているのに手を出した。あなたは突然人間に襲われた、だから食べた。あなたが怒るのは当然だよ」
「…………君はそうやって、人間のやること全部、君が背負うの? それは、国を治める者だから? それが責務だ、とでも言うの?」

 

グルル、と魔狼から無意識に唸り声が漏れた。優しい狼ね、と目を閉じて、ぴったりと額を大きな鼻にくっつけた。顔と同じほどの大きさがあるそれは、この世界を覆う白銀の花と変わらぬ温度だった。

 

「私は違うよ」

 

そう答えた声は、少し震えているような気がした。

 

「……ね。私、スージーっていうの。
 晴れの日はこうやって抜け出してくるから。だから……また、あなたに会えるかな?」
「……さあ。僕は、会いに来ないよ」
「そっかぁ。……じゃあ、せめて名前を教えてほしい、かな」
「魔獣に名前はないよ」

 

淡々と魔狼は答える。残念そうに声が沈むけれど、魔狼の知ったことではない。じゃあ、と声を漏らして少女は数歩離れる。ざく、ざくと雪を踏みしめる音が静かな森に木霊した。

 

「……アサッティ、って呼んでいい?」
「何それ。僕の名前?」
「うん。明日の、その次の日も晴れだといいなぁって」

 

だめかな? と胸に手を当てて、のぞき込むようにお願いをする。魔狼は暫く考えて、身をくるりと翻し、森へと駆けてゆく。丸太のような足が雪をかき揚げ、小さな雪崩が起きた。

 

「好きにしなよ」

 

その言葉が少女に聞こえたとき、魔狼はもうそこにはいなかった。

 

  ・
  ・

 

「おやおや、スージーに会ったのかい。あの子はよく授業を抜け出すことで有名なおてんば娘だよ。お前さんは運がいいねぇ、だって王族だよ王族。会おうってたって会える人じゃないさ」
「…………怪我、治してもらった。それから、また会えない? って」
「ははーん、よっぽど気にいられたんだねぇ。まーあの子って犬に目がないからそりゃあそうか」

 

雪の降らない樹氷の夜は、魔獣にとっては穏やかだった。己らを狩る人間は基本的には活動せず、魔獣は糧となる月の魔力を得て活発になる。弱い魔獣であれば吹雪の中を行動することは難しい。森の中で、ある者は月光欲を楽しみ、ある者は本能のまま食物を求めた。
アサッティと名付けられた魔狼は魔女を探した。魔女と口にして少し歩けば、呼んだかい? と目の前に現れるものだから、流石に驚いて毛を逆立てた。それを見て魔女は面白おかしくくつくつと笑うのだ。

 

「……人間は身勝手だ。勝手に……害になるって、追い立てて。勝手に……酷いことしたって、謝ってくる。なんなの、あいつら」
「そうだね、人間は身勝手でエゴの塊で、己の幸せしか考えない。お前が嫌うのも、よく分かるさ」

 

でもねぇ、と魔女は空を見上げる。長い夜の空は満点の星空で、複雑な色のカーテンが広がっていた。人間が触れるには難しい、魔獣や魔女にとっては親しみのある幻想的な光景。自分たちがこれを独占できるのだと考えると、人間より優位に立てた気持ちになった。

 

「他者を愛せるのも、思いやれるのも、人間さね。魔獣が何故、人を食わねば心がないか、分かるかい? それは、魔獣が持っていなくて、人が持っているものだからさ。魔獣は喰ったものの力や知識を取り込む。お前さんは人間を8人喰った。お前さんほどの規模の魔獣からすると全く足りてないが、それでももう、ないとは言わせないよ」
「……魔女は、人間が好き?」
「あぁ。観察していて飽きないからね。
 だって凄いだろう? この人が住むには到底厳しい地に、あいつらはやってきた。元々は魔女狩りという名の異端審問で逃げてきた人間だというじゃないか。それが、今や立派な王国を立てて暮らしている。魔獣にはできないことさ」

 

魔女は王国ができる前から樹氷の森で暮らしていた。だから人間がこのような場所で暮らす理由も、王国の成り立ちも知っていた。
かつて魔女裁判ともいわれる、聖北教徒による異教徒狩りが行われた。異教徒は彼らに追われ、人の住めぬこの地にたどり着いた。聖北教徒も、彼らはこのようなところでは生きていけぬと判断し追うことをやめた。
彼らはこの森で、唯一太陽の光がさす場所を見つけた。極北にあるこの地ではごく僅かな『昼』であったが、辛うじて住むことができる土地であった。異教徒たちはそこに村を建て、やがて大きくなり、今の王国へと発展していった。そうして今では土地の広さを利用して、寒さに強く僅かな太陽光で育つ食物を育て、食料の足しにする。足りない穀物や肉類などは、森で狩った魔獣の皮や牙を南の方にある街で売り、物々交換を行って賄っていった。決して豊かとは言えないものの、この氷雪地帯でも生活することができるのだ。

 

「……人間、来なくてよかったのに」
「いんや、魔獣にとって害ばかりではない。力のない魔獣にとってはいい迷惑だろうけどね。
 こうも魔力が濃い地では、人間が魔獣を狩ってもらわないと、魔獣が増え続ける。ここは世界に流れる魔力の脈の終着点の一つ。魔力が豊富だというのに、人間が住めないせいで魔力は溢れかえる。すると、飽和した魔力から魔獣が生まれる。魔獣が増えすぎると魔力を奪い合うから、いずれこの森の魔力が尽きて荒地となるのさ」

 

魔女は森と一心同体であるため、森が死ぬと共に死ぬ。私が生きるには程々に魔獣を狩ってもらった方がいいのさ。魔女は足元の雪を掬い、ふぅっと息を吹いた。誰も踏み固めていない雪は、遠くの方まで飛んで行った。
魔獣にとっても人間という存在はメリットがある。人間という思考する力を持った獲物は、魔獣しかいない地にとっては貴重だ。人間を食うことができた魔獣は『個』を得ることができる。思考しない、心のない魔獣が自己を得るのだ。

 

「あぁそうだ、お前さん、礼はちゃんと言ったのかい?」
「……お礼? 人間に?冗談じゃない」

 

ふん、と魔狼は鼻を鳴らす。おやおや、と魔女は肩をすくめ、声のトーンを下げて諭すように話した。

 

「いいかい? お前さんのような強い魔獣の寿命は、何かを喰らう限り永遠さ。けれど人間はそうじゃない。お前さんの思っている以上に短い。後から後悔しても、何もかも手遅れだからね」
「…………後悔なんて。それに、短命で、ざまあみろだ」

 

おやおや、ともう一度魔女は声を漏らしたが、今度は少し噴き出したような声だった。魔女は魔狼の耳が伏せぎみになって、少しばかり俯く仕草を見逃さなかった。

 

「明日は雪さね。明後日は吹雪。その次か……その次の日は、雪の降らない穏やかな日だろうさ」
「…………」

 


魔女の言った通り、4日後には雪の降らない、短くとも貴重な昼が訪れた。朝日が昇る前に眠りについて、日がしっかりと登った頃に目を醒ます。前足をぐーっと伸ばし、一つ欠伸をしてのそのそと城壁付近へと向かっていった。以前はこの辺りで出会ったっけ、と見渡すと、木の一つに赤色のリボンが巻かれていることに気が付いた。すん、と匂いを嗅げば、以前のあの人間のものだと判別できた。目印として巻いて帰ったのだろう。
まだ少女は来ていない。少し早かったのか、抜け出すことに失敗したか。別に来なくていいけど、とふてぶてしくその場に伏せ、二度寝を試みようとした。

 

「……あ! アサッティ、来てくれたのね!」

 

眠りに落ちる前に声が聞こえて、魔狼はばっと顔を起こす。満面の笑みを浮かべたスージーがぱたぱたと走ってきた。蹴り上げられた雪が太陽光を浴びてきらきらと光る。その眩しさに魔狼は目を細めた。

 

「やっぱり優しいねアサッティ! また会いに来てくれてありがとう!」
「……来て、って言うから……仕方なく……」
「じゃあ私のために来てくれたんだ! えへへ、私ほんとに嬉しい!」

 

誰が君なんかのために、と否定しようとするも、スージーは満面の笑みをアサッティに向ける。そうだ、とも違う、とも言えずにウウゥと困ったような唸り声が漏れるだけだった。

 

「ねえねえ、アサッティっていっつも何してるの?」
「何……って……走ったり、寝てたり……?」
「やっぱりそうなるよねぇ。この樹氷の森って、なんにもないもん。退屈そう」

 

伏せのままの状態のアサッティに、スージーは座ってもたれかかる。痛くない? と問われ、軽いよ、と答えたが、本当に尋ねたかったことに遅れて気が付いた。
神の血を引くことは、神聖なる力が身に宿っているということ。それが毒となる魔獣は痛みを引き起こす。アサッティにとっては本当にそんな血が流れているのか? と疑問に思う程度には何も思わなかった。

 

「……何ともない……本当に、流れてるの?」
「うーん、アサッティがとっても強くて分かんない! ってことはあるかもしれない? 時々森に入ることがあるけど、あなた以外の魔獣と会ったことないし、法力だって使えるからほんとだと思うよ」
「ふぅん……?」

 

口ぶりから、少女はしょっちゅう森の中に入っている。抜け出す、と言っていたので許可は得ていない。違和感を覚えたが、その違和感の正体が分からないままアサッティは尋ねた。

 

「森……入って、怒られない?」
「大丈夫だよ。抜け出すのも……黙認されてる。王族だけど、結構放任主義でやりたいことやりなさいーって感じで、結構自由なの」
「じゃあ……何で、森に?」

 

ああ、と魔狼は違和感の理由に納得した。樹氷の森を、『何もない』と彼女は言ったのだ。何もないと分かりながら、森へと足を運ぶ。何度も何度も森へ入った。
あー、と困った表情を浮かべる。空を仰いで答える姿は、その先にある、人間でも魔獣でも魔女でも届きそうにない、崇高な何かを見つめているようだった。

 

「探し物。かなあ」
「……何を?」
「……神様が、本当に居るのかどうか」

 

その言葉は空に吸い込まれて、誰も答えなかった。閉ざされた世界の一瞬の静寂。冷たい風が僅かに吹くも、何の音もしなかった。
沈黙を破ったのは彼女だった。寒いねぇ、とのんきな声を上げて、それからは日が暮れるまで他愛もない雑談を交わした。王国のこと、普段の暮らし方のこと、好きなこと、嫌いなこと。
こうして穏やかな日が来れば、太陽が昇って沈むまで。そんな、なんでもお喋りを交わす日々が続いた。お礼を伝えたらもう付き合わなくていい、明日こそは言おう、今度こそは言おう。魔狼は意を決して会いに行くのに、少女のお話に耳を傾けて、結局また今度、になってしまって。
そうして、お礼を伝えることもすっかり忘れて、少女も魔狼も、毎日の森での秘密のお喋りがすっかりお気に入りになっていた。

 

  ・
  ・

 

5人を一度に食べた日のことは、王国側がある程度察していた。城壁付近に付着した血の跡と、その先に落ちていた銀の矢じりを見回りの兵士が見つけ、報告をした。王はその血痕と帰らぬ5人の兵から、力のある賢き獣を傷つけたのだと判断した。
それ以上の被害はなかった。王は賢き獣は手を出さなければ何もしてこない、怒りに触れぬように手を出すな、と兵に命じた。それ以来魔狼を襲う人間はいなくなった、かと思いきやそうではなかった。仇を討つためだとか、いつか人を恨んで殺しに来るだとか、王の命令を無視する兵が中にはいた。
魔狼は人間を食べることはやめなかった。けれど、率先して、自ら狩ることはなかった。あくまでも、自分に危害を加えた人間のみを食い、力のない魔獣を狩る人間は無視した。それを兵が報告し、情報共有され、魔狼は手を出さなければ襲ってこないと判断された。

 

少女は王族の血筋なのだから、いつかこうして森で会うこともなくなるのだろう。いつか見つかって咎められて、会えなくなるだろう。魔狼はいつでも独りになる日のことを言い聞かせていた。
人間に見つかったとき、必ず人間は悲鳴を上げる。怯えた表情で逃げ出したり、ひきつった顔のままゆっくりと距離を取ったり。自分の理解を超えた存在や死の危険性を目の当たりにしたとき、人は本能的に恐怖する。保身のために逃げ出す。そんな姿を見るたび、少女が自分を恐れなかったことが特別なのだと思い知らされた。
彼らには自分のように大きな牙も、爪も、森を駆け抜ける力も、冷気を帯びた息もない。せいぜい魔獣にはない聡明さしかない。だから群れる。一人では生きられないから群れで行動をする。その中には魔狼の知らない暮らしがあった。魔狼はいつだって夜は一人だ。長い夜を一人で過ごす。昼より夜の方が長いこの地で、魔獣の時間は酷くつまらなかった。
知ってしまったから。人の温もりも、心も。月明りに伸びる己の影を見て、人間を見て、魔狼はぎり、と歯ぎしりをした。いつの間にかわざと人間の前に姿を現して、自分を襲う人間が居ないかを探していた。獣が生きるために餌を探すそれとは違っていたけれど、どうしても満たされない飢餓に侵された。食べたい、食べてしまいたい。空腹などないのに、何度も何度も魔狼は獲物を探した。
魔狼は、知らぬ内に心底軽蔑している人間に焦がれていたのだ。

 


「スージー、見てて」

 

2年半が経った、昼が最も長い季節のこと。いつものようにアサッティとスージーは森で出会っていた。
魔狼はくるり、宙がえりをする。空でメキメキと音を立てながら身体はみるみる小さくなり、四肢は腕と足へと変化してゆく。着地すると、そこには灰色で少し硬質な髪の、狼のような耳と尻尾が生えた少女よりも少し小さな子供がいた。魔獣特融の血のような紅の瞳が煌々と光っている。服は随分と大きく、成人男性の黒いコートと深緑色のズボンを着ている。服など持っていないから、狩った人間が着用していたものを身に着けてた。
人を食うことで得られた、人間への変化の術。それを見てわあ、と感嘆の声が漏れる。すごいすごいと拍手をして……やがてすぐにしゅんと落ち込んだ。

 

「わんちゃんじゃ……なくなった……」
「えっ、あれ!? がっかりさせちゃった!?」

 

獣キャラが人間になると突然ブーイングの嵐になる理はここでも適応された。少なくとも魔狼にとっては驚いてもらえるかな、と期待しての変化だった。めっちゃがっかりされた。

 

「スージーと……同じになれるって……思って……」
「え、私と同じに? アサッティ、でも、人間のこと嫌いなんじゃ……」

 

次の言葉を聞いて、丸く目を見開く。意図的に残しているのか、上手く変化ができないのか。狼耳はすっかりぺたんと伏せてしまい、今度はアサッティの方が落ち込んでいる。

 

「人間は、嫌いだけど……でも、ぎゅってするのも、君はできるけど……僕は、できない、し……君だけ、ずるいじゃん……」
「…………、」

 

それを聞いて思わず、スージーは勢いよくぎゅう、とアサッティのことを抱きしめる。何が起きたのか分からず、紅の瞳はまあるく開かれた。
狼少年の視界の多くが柔らかな金糸で覆われる。いつもはあれだけ遠く、ちっぽけな存在だったのに、今ではこんなにも近くて何倍にも大きく見えた。抱きしめる身体も、今は全身を包んでくれる。

 

「ほんとだ。こんなにもアサッティが近いよ。あんなに遠かったのに、こんなに近い」
「…………スージー、」

 

人間はずるい。お互いに抱きしめ合って、触れあって、身勝手な行動で幸せになる。僕には大きな身体と支える四肢でそんなことできないのに。この爪も牙も、何かを傷つけることしかできないのに。
人間を食べることは簡単だった。この嗅覚と聴覚があれば、森の中でも決して逃がすことなく捕らえられた。それこそ城壁を破ってしまって、人間を全部食い殺すことだって。

 

「アサッティは、自分を襲った人間しか食べなかったんだよね。きっと、私が思ってる以上にずっと『飢え』に堪えながら……ありがとう、アサッティ」

 

けれど、そんなことをしてしまえば二度とこうして平穏に過ごすことができなくなる。構わず人を襲うと判断されれば、人間はあらゆる手を使って殺しに来る。そうなれば、二度と会えなくなってしまう。
だから魔狼は耐えた。『飢え』と『寒さ』から耐えて、耐えて、己を傷つける人間を待った。あいつらは身勝手なくせに、こういうときにはなかなか来ない。
そうして耐えて、やっと得られた人の姿。スージーのため、ではなく、己が知らずのうちに焦がれてなりたかった姿。人間は自分の知らないものも、欲しいものも独り占めするから、魔狼だって欲しかった。

 

「……人間、食べてるんだよ?」
「うん。でも、あなたは『生きるため』に食べてる」

 

危害が及ぶとき、その原因を排除して安息を得る。安息を得るために、何かが犠牲になることは仕方のないこと。
そういうもの? と、瞳を閉じてアサッティはぐるる、と喉を鳴らした。そういうものだよ、と瞳を閉じてスージーはふふ、と笑い声を零した。

 

 

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