海の欠片

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小話『明日天気になあれ』 下

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昼が短くなり、長くなり、もう一度短くなって、少しずつ長くなろうとした頃のことだった。万年雪に覆われたこの地に雪が降らなくなる季節などない。この日は雪が降っていたけれど、雪が降っていてもこの日だけは会いたいとスージーに頼まれた。年に一度、短い昼が長くなりつつある頃に彼女は決まって頼んだ。
雪が降ることも、降らないこともあった。運よく吹雪いたことはなかった。魔狼は会いに来る理由を尋ねたが、内緒と決して教えてくれなかった。ただ、この次の日は晴れていてもスージーは会いに来なかった。だからアサッティは何となく損をした気持ちになるのだ。

 

「……今日は随分、くっつく」
「えへへー、だって寒いんだもん」

 

雪がいつも以上に降る日だった。日の照らない空から降り注ぐ雪が、純白の地の穢れを上書きしていく。生命の痕跡を覆い、無音の子守歌を囁く。そうして弱い生き物は凍てついて、目覚めることのない眠りについた。
ぶかぶかだったアサッティの服は、スージーが裾を調整したおかげで今では子供が着ることのできるサイズとなっていた。それでもアサッティにとってはまだ一回り大きく、裾を引きずりそうになっているのだが。

 

「寒いなら、来なくて、いい」
「やだ。この日は絶対に会うんだって決めてるんだもん」

 

どうして? と聞いたところではぐらかされるに決まっている。アサッティは人間の身体でスージーの横に並んだまま、そう、とだけ返した。
けれど、いつもにこにこと眩しい笑顔を浮かべる少女が、白色に隠れてしまいそうだったから。紅の視線を、白から蒼に移した。

 

「……私ね、12歳になるんだ」
「……12年、生きたってこと?」
「うん。いっつも誕生日にアサッティに会いたくて、こうして我儘言ってたの」

 

人間の誕生日の文化がアサッティには分からなかった。魔獣は人間を食うことで知識を得るが、自身とかけ離れた文化は馴染まないことが多い。嬉しいこと? と尋ねると、そうだねぇと返ってきた。

 

「決まって皆、お誕生日おめでとうって、その人が生まれてきたことをお祝いするんだ」
「……生まれた日をお祝いするの、変なの。いつ生まれたか、覚えてるのも」
「魔獣は突然生まれるもんねぇ」

 

生まれたことすら自覚できるとは限らない。生まれて人間を喰らい、自我を得ることで世界を認識する。その日を生まれた日を定義すべきなのか、存在そのものが生まれた日を定義すべきなのか。難しいねー、とスージーは呟いた。

 

「……懐かしいなぁ、一人で森に入ってたのが、すっかりアサッティに会うためになってるんだもん。人生何があるか分かんないね」
「そういえば、神様を探してるって……見つかったの?」

 

答えが返ってこないかと思った。
長い沈黙から、答えを返してもらえない質問をしたのだと思った。

 

「あなたが見つかっちゃった」

 

俯いていて、視線は合わなかった。
けれどすぐに笑って顔を上げる。それから自分に巻いていた、アサッティには見慣れぬ黒色のマフラーを解く。アサッティの肩に積もった雪を払ってから、それを彼の首元に巻いた。

 

「これあげる。寒いからつけてきたんだけど、アサッティと一緒だと全然寒くないもん」
「……え? 寒いから、くっついてるのに……?」
「でもくっつくと寒くないんだよ。それに、私よりアサッティの方が似合うもん、これ」

 

魔獣はその土地の魔力で生まれるが故、その土地の気候が最も身に適している。故に防寒具を身に着ける必要はなかった。それをスージーも知っているのに、と随分と丈の長いマフラーをくるくると腕に巻いて遊ぶ。そんなアサッティの頭をぽんぽんと優しく撫で、聖句を紡ぐように言葉を零した。

 

「あなたの明日も、その次の日も。ずっと、『はれ』でありますように」

 

ちり、と痛みを覚えて顔を歪める。何するの、と反論しようとして、少女は狼少年をぎゅっと抱きしめた。いつの間にか雪が止んでいて、別れの合図の夕暮れが白の世界に少しだけ色を齎した。
ほんの少しの間だけ、無彩色の世界に色が宿る。この地では、この当たり前のオレンジ色も奇跡の光景に等しかった。

 

「それじゃあそろそろ戻るね。今年も我儘聞いてくれてありがと!」

 

離れて、満面の笑顔で手を振る。走り去ろうとする姿に思わず手を伸ばしそうになって、躊躇した。あぅ、と小さく声を零して、何か言わなきゃ、と言葉を探す。行ってしまう前に。伝えなければ。

 

「……お誕生日、おめでとう」
「―― 、」

 

足を止めて、振り返って。

 

「    、」

 

少女は、何かを口にした。
表情は太陽を背にしていたせいで分からなかった。
口の動きも、言葉も、何も分からなかった。
伝えた言葉が本当に正解なのかも。

 

  ・
  ・

 

次の日、晴れていたのにやはり少女は会いに来なかった。
会えないことは分かっていた。けれど狼少年は城壁の外側で、いつものように少女がやってくることを待っていた。まるで本当に太陽の神の祝福があるのかと錯覚するほどに快晴であったから、朝日を逃れたとしても居心地が悪かった。気温も高くなったのか、樹氷や雪が微かに溶けて、ぽたりぽたりと雫が落ちる。見えない川が生まれ、地へと還る。
昼が長い時期に時々起きる現象だったから、狼少年は特に驚かなかった。けれど、この時期に目覚めの兆しが訪れることにどうしても違和感があった。

 

結局夜になり、魔狼の姿となっていつものように森を徘徊する。随分と丈の長いマフラーは、狼の姿でも破れることがないほどの長さだったからか、変化したとしても首に巻かれたままだった。マフラーというよりリボンのような状態ではあったが、魔狼にとっては些細な問題だった。

 

「……魔女、いる?」

 

昨日のスージーの様子がどうしても気になった。それから何かを忘れている、かつて抱いた違和感を忘れている。思い出せ。取返しがつかなくなるぞ。魔狼の中で警鐘が鳴った。
お願い、と祈りながら魔女を探せば、やあ、といつものようにどこからともなく現れる。来る頃だと思ったよと、まるで魔狼のことを見透かしたようにくつくつと笑った。

 

「教えて、魔女」
「あぁ、いいとも。さあ、何を聞きたい?」

 

違和感はいくつもあった。けれど、質問が分からない。スージーの様子がおかしかった、と問えば、そうだろうねとしかきっと返ってこない。魔女は聞いたことは教えるが、逆に言えば聞かれたことしか教えない。
何を尋ねればいい。賢き獣は思考する。何を知ればいい。賢き獣は思い返す。賢き獣と言えど、所詮20人程度喰っただけだ。人間のようには考えられない。言葉もまだたどたどしい。それでも賢き獣は必死に探した。

 

「……今日、こんな晴れてるの、変」
「そうさねぇ、この季節にしては気温も高いし氷も雪も解けた。こればかりは偶然かそうじゃないのか、私は分からないね。凡そ、信仰の力だろうが」
「……でも、それが信仰の力なら、ずっと晴れさせれる」
「こんな日が続けば、雪も樹氷も溶けてしまうだろうねぇ。けれど、天を動かすほどの奇跡を起こすには、相応の信仰が必要さ」

 

ルル、と小さく唸る。相応の信仰が必要、ということは今日という日に何かが起こったか、あるいは起きようとしているか。信仰が関係しているのであれば、きっと王族が関係している。信仰の中心となっているのは、いつでもあそこだ。
では、今日何が起こる? 今日は王国にとって、何の日だ?

 

「……、…………あ、」

 

誕生日に会いたい。だから、誕生日の日に会いたいと我儘を言ってた。スージーはそう話してくれた。
それはただの日ではない。生まれを祝う日なのだと。しかし、果たしてそのような日に、ましてや王族の者が抜け出して魔獣と会うことが叶うのか。
……否、だ。叶わないから、たとえ晴れていても、会えなかった。

 

「……一日前に、いつも……!」

 

12歳になった、ではなく、なると口にした。誕生日の話が出たことも、12歳になる昨日初めて伝えられた。
今日が太陽信仰としての吉日だと推測するなら。

 

「教えて、魔女! 王族は12歳になったら何があるの!?

 

こみ上げてくる不快感。息が詰まって苦しくなる。まるで雪崩に飲まれたように息ができない。押しつぶされて出ることができない。
ぱち、ぱち。魔女は手を叩く。よく気が付いたね、と称賛の言葉を投げかけた後、ついて来るようにと手招きをした。深く踏み込んだと思った次の瞬間には、数メートル先を飛んでいた。
夜の帳で覆われた樹氷の森を飛ぶ魔女を、魔狼は走って追いかける。猛スピードのそれは強い風が吹き荒れて、巻き込まれた白金の花びらが凍てついた木々に叩きつけられた。巻き込まれれば、人間どころか魔獣ですらただではすまなかっただろう。
魔女の案内によってたどり着いた場所は、王国の南側の城壁に設けられた門から伸びた道の先の、かなり小規模な神殿だった。一片が30メートル程度の正方形の白い石の床の角には柱が伸びており、中心には同じ材質の祭壇があった。雪一つ積もっておらず、魔狼はそこに踏み込むなり顔を顰めた。ここに居たくない、壊してしまいたい、そんな攻撃的な感情をぐっと抑える。

 

「ここは王国が作った、太陽信仰のための神殿。王国では12歳から成人扱いで、王子は王に、王女は女王になるおめでたい日さね」

 

ここで誓いと祈りを捧げるのさ、とコツコツと魔女は祭壇を杖で叩く。魔女の言う通りであれば、今日は彼女が成人し女王となった。国を治める以上、会うことは難しいだろう。彼女がこれから作り上げる国が良いものであることを、外から願うことしか。
……本当に?

 

「…………違う」

 

魔女、教えて。恐る恐る、魔狼は尋ねた。

 

「スージーは、どうなるの」

 

すぐに抜け出せる場所ではあるが、一応森の中にこの神殿は位置している。彼女は神様を探しに森にやってきたと言っていた。もし仮に国を治める女王となるだけならば、何故この神殿から離れた場所にやってきていた? 何故何度も王国を抜け出した? 何故それが黙認されている?
少しずつ、辻褄が合わない。何かがズレていて、話が噛み合わない。魔女は暫く黙っていたが、一体どこから取り出したのか、手には装飾の施された白い石の聖杯があった。中身は何か入っているようだが、凍りついていて確認することはできない。

 

「そう。あくまでそれは、長男、長女の話」

 

平穏が続くと、いつかそれが壊れるのだと人は恐れる。だから壊れぬように、己の平穏を信じられるように神事や儀式を行う。そこに人々は正しさも間違いも求めない。

 

「次男、次女は12になった日に身を清められ、銀でできた『茨』を身に巻いて吊り下げられ、死ぬまで血を搾取される。夜から始め、凡そ夜明けには終わる。闇を払い陽光照らす夜明けに命が落ちるのが、一番縁起がいいそうさ。
 そして命落ちるとき、神の魂が聖杯に宿る。それを神に、本来あるべき場所へお返しすることで、この地は太陽神から見放されぬと信仰されている」

 

人間にとっては意味がある行為であったとしても、魔獣や魔女にとっては何の意味もなさない。ただ人間が己の平穏を信じたいがために、犠牲を生み出し心を痛める。不幸を生むことでいつ途切れるか分からない平穏をあえて途切れさせ、そうして人はその悲劇によって安堵する。
こんなにかわいそうなことがあったのだから、暫くは平穏が続くはずだと。
あまりにも愚かで、身勝手で、滑稽な人間の幸福への妄信。

 

「…………まさか」
「だから言ったろう? 人間の寿命はお前さんの思っている以上に短い。後から後悔しても、何もかも手遅れだからね、って」

 

魔女は、告げた。

 

―― あれは、王国の、生贄だよ

 

 

 

「魔獣だ! 魔獣が入り込んできたぞ!」
「なんてことなの、今日は王女様が神様の元へと旅立たれる日なのに!」

 

城壁は高かったけれど、距離を取って走り跳べば軽々と超えられた。魔狼の前では魔獣の侵入を許さぬ強固な防壁も、ただの柵だ。巨体が地に降って、地鳴りが響く。昼に生きる人間が、この日は異常なまでに多かった。
神の供物となることをを望んでいる。悲劇と呼びながら、己の安息のために生贄を捧げることを肯定している。心が痛む以上に平穏が崩れることを恐れ、信仰という名の妄信で一つの命を徒花へと還す。

 

「おい、あいつ、あの狼だ! あのあり得ないくらいでかい狼!」
「あいつは手を出さなけりゃ襲ってこなかったろ! 何であれが王国に入ってきてんだよ!」

 

走る。どこ、スージー、どこ。早くしないと手遅れになる。会えない、なんて生ぬるい。一生、これからこの先、永遠に手の届かないところへいってしまう。
あぁ、煩い、人が煩い、邪魔だ、退いて、騒ぐな、喚くな、

 

「っァァァアアアアアアアアッ!!」

 

獣とも人ともつかない慟哭が響き渡る。凍てついた空気を震わせ、人間は耳を塞ぐ。身体を八つ裂きにされるかのような咆哮に、息をすることも忘れた。
侵入を許された魔狼は障害物を四肢で踏み、疾風の如く駆け雪を巻き上げる。人間から見れば、それはまさに破壊の化身であった。王国に、このめでたい日に災厄が訪れたのだと。

 

「何をしている! 矢を撃て、スージー様に近づけるな!」
「しかし、あのサイズの魔獣に我々ができることなんて何も……!」

 

つん、と柔らかく甘い、けれど毛が逆立つような血の香りがした。糧であり毒であるその香りの正体を理解するより先に走っていた。

 

「……スージー!」

 

ぐしゃり、人間の営みが壊されていく。逃げ損ねた人間が巻き込まれて血しぶきを上げる。悲鳴も怒号も魔狼には届かない。
流れる血は人間のものだけではなかった。兵が放つ弓が魔狼の身体を霞め、ぱっと黒々とした赤が花咲かせた。毛を逆立て硬質化したそれは人間の武器で傷つけることは難しく、矢は突き刺さらずかすり傷を負わせる程度が限界だった。
この程度の傷では痛みなどない。1、2時間後には再生能力で完治する。だというのに、あまりにも今にも泣き出しそうな、必死な形相をしていたものだから。

 

「……あれは。何かを、探している?」

 

兵が一人、もう一人、弓を構えることをやめた。離れた場所で命の危険性はなく、こちらへ向かってくる気配がない故の冷静さ。あれは人を襲いに来たのではない。魔獣にとって、人間は『殺す』ことには大した意味がない。知を得るために本能的に『喰う』ことを求める。あえて喰わずして殺す理由を挙げるなら、遊びが目的だ。
されどあの魔狼は、見えていない人間を己の進撃に巻き込みこそすれど、人間を殺そうとしなければ、喰らおうともしない。圧倒的優位であるはずの存在が、何故か苦し気に見える。
理由はすぐに判明した。

 

「……、……っ!!」

 

王族の住む小規模な城。最も高い塔に、見せつけられるように銀の茨で絡められ、十字の姿で吊り下げられている少女を見つけた。ぽたり、ぽたりと雫が聖杯に滴り落ちる。命の砂時計。全ての砂という血が落ちれば、夜明けの時。徒花の蕾が開けば、その命は落ちる。
ぶわり。全身の血が沸いた。

 

「……人間は! お前らは!
 お前らのエゴで! この子を生贄に! 犠牲にした!
 何でお前らが死なないんだよ! 何でっ……何で、スージーが、死ななきゃいけないんだ! お前らの方がずっと、ずっと醜くて汚くて、死ぬべきなのに!!

 

森に足を運んでいたのは、神様の存在を確かめるためであった。己の存在が、犠牲が、本当に意味のあるものなのかどうか。神様が存在して、捧げられた血で未来をこれからも照らして行けるものなのか。
それも、恐らく真だろう。しかし、魔狼はこう考えた。

 

お前たちは身勝手だ、自分の平穏ばかりを望んで! ありもしない奇跡を妄信して、でっちあげの悲劇を作って、未来を信じられないからって理由だけで同族を祭り上げて、殺す!!

 

―― この樹氷の森って、なんにもないもん。退屈そう
―― 時々森に入ることがあるけど、あなた以外の魔獣と会ったことないし、法力だって使えるからほんとだと思うよ

 

これは樹氷の森の入り口だけしか知らなければ、決して何もないとは言えない。魔獣と会ったことがない、それは昼に活動する魔獣がゼロでないことを、彼女は知っている。知っていて、この言葉を口にしたのは。

 

スージーのこと! お前らはちゃんと、スージーだと見たのかよ!!
 生贄じゃなくて、一人の人間として、少しでも彼女を見たのかよ!!

 

……死にたかったのではないだろうか。
自分で死ぬことは怖いからか、あるいは監視されているからか。黙認されているという外に出て、魔獣に食われてしまいたかったのではないだろうか。
その考えに至った魔狼は、少女の行動に納得したと同時に、胸を貫かれたかのような痛みを覚えて、酷く苦しくて、悲しかった。

 

っぅう、ゥウウァァァアアアアアアッ!!

 

駆ける。高さなんて何の障害にもならなかった。
跳ねる。ミシ、と屋根が悲鳴を上げる。
飛ぶ。塔の根本に力任せに体当たりをし、崩壊させる。ガラガラと音を立て瓦礫となってゆく中、宙に放り出された少女を決して傷つけることなく咥えた。
口の中に女子供特融の甘味が広がる。けれど生贄として祭り上げられ、いつも以上に神聖な力を持ったそれは口の中をジュウと焼いた。
地に舞い降り、ズゥンと再び地響き。もう一度跳ねて短い吹雪を巻き起こすと、そこにはもう、魔狼と少女の姿はなかった。

 

「…………」

 

女王が、兵が、民が、その一部始終を見た。
森の魔狼の慟哭を、いつの間にか逃げることを忘れて見ていた。
儀式は成立しない。これでは陽光の加護を受けるこの王国から、陽光が失われてしまう。追って、無理にでも儀式を成立させなければ。
そう思う人間は、誰一人として現れなかった。

 

「……あの魔狼は。我らが儀式に、憤慨したのか」

 

人の顔ほどあろうかという大きな丸い雪解けの跡を見て、女王は呟いた。触れてみても、熱はもうすっかり失っていて、雪の冷たさだけが返ってくる。暖かいな、と女王はもう片方の手で顔を覆った。

 

 

 

樹氷の森へと逃げた魔狼は、雪の上に少女を置く。急いで人間の姿に変化し、彼女の身体に刺さる銀の茨を取り除こうとした。人間の状態でも魔狼としての力は発揮できたが、清められた銀でできた茨は魔狼にとって弓矢以上の殺傷力があった。痛みに歯を食いしばりながら、ブチブチと音を立てて引き千切った。
真っ白なブラウスとスカートはズタズタになって赤色に染まり、棘が刺さってできた傷が痛々しい。ぐったりとしたまま意識は戻らず、体温も低い。このままではいけない。スージーが死んでしまう。けれど、どうしていいのか魔狼には分からない。

 

「……起きて……ねぇ、スージー、起きてよ……」

 

ウゥ、と唸り声を上げる。耳はぺたんと伏せられ、ゆらゆらと小さく尻尾が揺れた。懇願するように抱きしめ、額に己の額を押し付けた。

 

「やだ……置いていかないで…………やだ、やだよ……」

 

どれだけ傷を舐めても、どれだけ己の身体で温めても、少女は目を醒まさない。大きな牙と爪では死に追いやることしかできない。遠くまで聞こえる耳も、敏感な嗅覚も、何の意味もなさない。
何もできることがない。傷つけ、喰らうことしかできない魔狼には、傷を癒すことができない。

 

「起きて……起き、て……って……ば、ぁ……」

 

何もできないと思いたくなくて、何度も呼び掛けた。
帰ってきてほしくて、また笑ってほしくて、傍に居てほしくて、独りにしないでほしくて、お喋りをしてほしくて、撫でてほしくて、何度も何度も呼び掛けた。
寂しくて、悲しくて、悔しくて、寒くて、何度も何度も何度も呼び掛けた。
けれど、スージーは、目を醒まさない。

 

「……ぅう、うあぁ、あっ……ぅ、ひぐ、うぅ、あ、ああぁっ……うわ、ぁ、ぁぁあああっ、……あぁぁぁああああっ……!!」

 

何で言ってくれなかったの。何で黙ってたの。助けて、って言ってくれたら、助けられたのに。
何で気づけなかったの。何で森に入っていたことの違和感をそのままにしたの。気づいていたら、連れ出してあげれたのに。
まだお礼も言えてないのに。傷を治してくれてありがとうって、言えてないままなのに。なのに、なんで、君ばかりありがとうって言って、僕には言わせてくれなかったの。

 

「うあぁあああああああっ、あぁぁあああああ、……っぐ、ひぐ、あぁ、ぁ、あぁぁぁあああああああっ!!

 

後悔があふれ出して、止まらなくなって、狼少年は大声で泣き喚いた。

 

「……『思っているより人の命は短い』。それは寿命だけの話じゃない」

 

傍に現れた魔女が、寄り添うように言葉を紡ぐ。いつもの軽い声調ではなかった。手に持ったままの凍り付いた聖杯を撫で、東の空を見上げる。
少しだけ、空が白くなろうとしていた。

 

「魔獣や私たちからすれば、何の意味もない行為。されど、人間にとっては明日を信じるために必要な行為。
 分かってはいるんだけど……やるせないね。私はお前のように、王国へは入ることができない。せいぜいこうして、かつての生贄の血を守ってやることしか、私にはできない。彼らが徒労で終わってほしくない、報われる日が来てほしい……なんて、これも我々もエゴなのだろうねぇ」

 

魔女は魔力の身体を持つ以上、魔獣の傷を癒すことができても、神の血を引く人間の傷を癒すことはできない。基本的に神の力は霊力とされ、魔の力は霊力に優位となる。そうでなくても月の魔力を濃く持つ以上、太陽の霊力の前に浄化される。どうしても、相性が悪い。
この森には何もない。凍てついた木々と、僅かな動物と、そこそこの魔獣だけ。薬を作る材料もなく、森の外の知識はない。人間を一人癒す手段が、どこにもない。
どうすることもできない。後はもう、弔ってやることしか。

 

「うぅ……、…………ぅ?」

 

狼少年が目を見開いて、顔を上げた。
……一つだけ、あるじゃないか。

 

「……魔女、ある。『血』が、ある」

 

太陽神の力は自分には毒でも、彼女には力になる。
そこにあるものが、凍り付いて時を止め、性質が変化していないのであれば。

 

「…………あぁ」

 

それは、今この場に限っては、徒花などではない。

 

  ・
  ・

 

「…………ぅ、」

 

霞がかった意識が覚醒してゆく。日はすっかり登り切っていて、青空が広がっていた。天国だろうか、と身体を起こそうとして、柔らかな毛に包まれていることに気が付いた。
近づいたものを全てを凍えさせるほどの魔力を持つそれは、今はたとえ吹雪が襲ったとしても自身を守り抜く暖となっている。触れればそれは微かに上下していた。

 

「…………アサッティ?」

 

ぴくり、耳が動いてのそりと頭が持ち上がる。ルル、と小さく唸り声をあげて、大きな紅色の瞳は名前を呼んだ者の顔を映していた。しばし見つめた後、尻尾をぱたぱたと振り、雪を叩きつけては跳ね上げた。

 

「……スージー……!
 よかった……目を醒ました……よかった、よかっ……!!」

 

マズルを少女の額に当て、ぴすぴすと鼻を鳴らす。震えた声と、傷だらけの前足。引きちぎられた銀の茨に、自身の引き裂かれ紅に染まった服。何が起きたのか、容易に想像ができた。
生贄に、ならなかった。捧げられるはずの命は、捧げられなかった。太陽は変わらず高くにある。王国の様子は分からなかったが、森がこの天気ならば雪に閉ざされるなんてことはないだろう。

 

「……アサッ……ティ、」

 

あぁ、生きてしまった。
本来は迎えられないはずの明日を、向かえてしまった。
もう二度と享受できない神様の威光を、こうしてめいいっぱい身体に浴びている。

 

「…………、……ごめん、ごめんね、アサッティ……わた、し……ごめん、ごめんねぇ……!!」

 

……本当は。
本当は森で出会ったあの日、私のことを食べてくれないかと期待した。私のことを、森へと連れ去ってくれないかと期待した。もしいつか、食べてと言えば彼は食べてくれるだろうか。やっぱり毒になる私のことは食べてくれないだろうか。
私には姉が居た。王国は次女である私を、将来生贄になる子供として育てた。正しくは生贄になる、ということは伏せられていたが、姉と違って私の教育方針は放任主義で、やりたいことをさせてくれた。それに違和感を覚えて、太陽信仰のことを調べた。
私が12歳で生贄になると知ってしまった。周りが優しいのも、好きなことをさせてくれるのも、12歳までしか生きられず、神に捧げられる命だからなのだと知った。皆が私のことを生贄として見ている。私のことを心苦しく思う者が居た。憐れんで同情する者が居た。彼らは、私が死ぬことを哀れんでいるくせに、私が死ぬことを喜んでいる。そう気が付くと、何もかもが嫌になった。
本当は食べて欲しかった。生贄であることから逃げ出したくて、森に入っていた。それを隠していたことへの罪悪感に堪えられなくなって、大粒の涙と謝罪の言葉が零れる。ひっくり返ったバケツの水は、もう戻らなかった。
食べてくれたら。そう願って魔狼に近づいた。食べられるどころか、12歳で死ぬはずの命がこうして救われてしまった。犠牲になることを受け入れてしまったことも、逃げ出せなかったことも、こうして生き延びてしまったことも、自分だけが生きてしまったことも。彼も、国民も、神も裏切ってしまったような気持ちになった。

 

「…………今も?」
「……え?」
「今も。……まだ、消えちゃいたいって、思う?」

 

尋ねる魔狼の顔は、その大きさにはとても似合わないほど幼いものだった。日が沈み、夜闇を怯え母に泣きつく子供と同じだった。
賢き獣は人間を食べない。それは、心を持ってしまうから。人の温もりを知ってしまうから。そうして、得られないものだと理解してしまうから。食べないのではなく、食べられなくなってしまうのだ。

 

「…………」

 

項垂れたまま、ぽつり、ぽつり。

 

「……やだ、よ、」

 

どうして怖くなかったと思う?

 

「……や、だ……死にたく、なんか……ない、よ…………生贄、として、望まれ、てても、それが、正しかった、と、して……も……」

 

それはね、大切なものがなかったからなんだよ。

 

「……怖いよ、……死ぬ、なん、て……アサッティと、もう、会えない、なん……うぅ、うっ……や、だぁ……ひぐ、ぅう、あ、あぁ、」

 

あなたは私にお誕生日おめでとうと言ってくれた。
それは命のカウントダウンではなく、私という一人の人間が生まれたことを祝福してくれる言葉だった。
それがどれだけ嬉しかったか。それが、どれだけ苦しかったか。
その日を迎えてしまったら私はいなくなるのに、あなたは明日もその次の日も、『はれ』を望むのだから。

 

「こわ、かった……!! ごわ、がった、よぉ……!! 死にだく、なんてっ……でも、でも、皆、……私が、死ぬごと、望ん、で、ぇっ……!!
 でも、ほんど、は、っ……あぁ、うぅ、ひぐっ……っあぁぁぁぁぁああああぁぁっ……!!」
「……そっか、それなら……うん、よかった……
 ……生きたいって、思えるなら……大丈夫……よかった、スージー、ほんとに……」

 

寄り添ったまま、魔狼は少年の姿へと変わる。
この身体だと、君を抱きしめてあげられないから。涙を拭いてあげられないから。
人の姿になって、ちょっとだけ大きな君を抱きしめる。ふわふわと柔らかい金糸が頬に当たってくすぐったかった。

 

 

 

「……仇花、なんかじゃなかったねぇ。ちょっとは、先代も浮かばれただろうさ」

 

この季節で、最も太陽が高く上る時間。多くの人にとっては、きっと朝と大して変わらない空の景色。
極北地方では貴重な太陽神の祝福を授かれる時間。この時間があるから、人間は暮らして行ける。

 

「さあ、思いっきり南へお行き、森で生まれし我が子らよ。
 心ある魔獣が森で暮らすには、些か寒すぎる。王女様も、もうお国へは帰れないだろうからねぇ」

 

魔女は自然の権化。人の姿をした人ならざる者が産声を上げれば、そこは野生の始まり。いつでも魔女は、命のやりとりを、生命の営みを見守っている。そうして新たな我が子の門出を祝うのだ。

 

 

 

「南、僕たちの知らないもの、たくさんあるって」
「賛成! 商人さんはいつも南へ向かうんだ。そっちに街があるって。準備が必要だし、ひとまずそこに向かってみよ」

 

人のいる場所、と聞いて露骨に嫌そうな顔をするが、ついには渋々承諾する。魔狼の姿で少女を乗せ、森を抜けて南へと向かう。
暫くは森を抜けても白銀の世界が続いていたが、やがて緑となり丘と原が続く。風に乗って、苦く、すーっとした香りが運ばれる。草の大地を見たことがなかった二人は思わずわぁ、と感嘆の声を漏らした。
冷たい風ではあるが、雪交じりのそれとは違う。清涼感があり、生きていると実感できる。雪の檻の外は、命に溢れていた。

 

「……明日もこうして、はれだといいなぁ」
「晴れなくても、スージー、もうずっと一緒」
「あはは、ほんとだ。もう雪でも吹雪でも一緒だったね」

 

例え晴れていなくても、これからは二人でどこへでも行ける。どこまでも続く広大な大地を踏みしめて、雪に閉ざされた中では知らないものに触れていける。
約束された陽光はなく、恐れられる闇夜はない。
だから少女は、これからも祈り続ける。

 

明日も、その次の日も。ずっと、『はれ』でありますように。

 

一匹と一人は、二人となって広い世界へと旅立っていった。

 

 

 

☆あとがき
「30KBで終わらせるぞ!」
「なんかまだ半分も書いてないのに20KBとか言ってる!」
「はい余裕で30KB突破! まあ倍はいかんでしょ!」
「な、70KBとかには……ならないからぁ……」

御覧のあり様!!!!
お気に入りの作品のオクエヌ邂逅話はルンルンで書いたのに、この作品に関しては「どうじでごんなびどいごどずるの!!!!」とキレ散らかしながら書いていました。平日4日で。4日……?
子供×子供、うちの宿では初めてだったんですけどめちゃくちゃ可愛いですね……こう、恋愛感情という言葉が似合わない恋愛感情というか……友達の延長線だけど、誰よりも何よりも大切な人、というか……子供じゃないとできない距離感がここにある……

それはそれとして、ドドンパ(スージーちゃん)がコレット・ブルーネルってテイルズのキャラみがあると言われ、未履修なもののRTAで走ってたのもあって微妙に知ってて。スージーちゃんのことを
「このコレット・ブルーネルがよ!!!!」
とキレちらかしてたのはここだけのお話です。思わずコレットちゃんについて調べたし、コレットちゃんに変な感情を抱くようになりました。
そしてアサッティ君がドドンパちゃんに偽名をあげるシーンを最後に書こうとしたんですが、あまりにも蛇足すぎてカットされるという悲しいお話がありました。もうドドンパって偽名捨ててスージーで生きていってよお願いだからさ~~~~~~~~