海の欠片

わんころがCWのリプレイ置いたり設定置いたりするところです。

教会組邂逅話『茨抜く鳥、歌ったならば 第2節 下』

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子供は教会で保護し、私たちで面倒を見ることになった。怪我はテラートが治したが、空腹による衰弱は解決していない。長期的な暴力を受けていた様子も見受けられたので、精神的な問題も抱えているだろう。独り立ちできるまでゆっくり付き合っていくことになりそうだった。
子供は今のところ状態は落ち着いていて眠っている。起きたときに確実に混乱するだろうから、すぐに状況を説明できるようにテラートか私のどちらかが常につく体制になった。寝なくていいからずっとついてていいのだが。

「……教えてください。
 あなたは、何故この子供を救おうと思ったのですか?何故あそこまで心を動かされたのですか?」

どうしても腑に堕ちなくて、夜中にテラートに尋ねた。
起きていたのと柔らかい声を投げかけたが、私の声から察してか寝ろとは言ってこなかった。

「さあ?」
「さあ、て」
「だって私はこの子供のことを何も知らないわ。盗みが行われたのは1度だけ。何度も盗みを働いたわけではない。少なくとも周辺で同様の被害が起きるか、同じ店に何度も来る。店主さんも、問題意識していなかった。事が起きてから今に至るまであまりにも早い。じゃあ、常習犯ではない。そもそもすでにかなり衰弱していたんじゃないかしら。せいぜい分かる……どころか、推測の域を出ないけど。このくらいよ」
「でも、盗んだものがありませんでした。勿論食べたという可能性はありますが……本当にこの子でしょうか」
「ないからこそ、この子でしょう。その場で食べずに衰弱したまま路地裏に行ってみなさい」

あぁ、と納得した。いいカモにされるのは想像に難くない。
最も確信があるわけではないため、詳細は子供に聞く必要があるだろう。起きてからのお楽しみね、なんて緊張感のないことを口にした。

「……この子の目は、優しさを知らない目をしていた」

そうして次に出てきた言葉は、どこか憂いを帯びた調子だった。

「それって寂しいじゃない。悪意しか知らないなんて。世界はこんなにも優しくて暖かいのに。それが届かない暗く光の届かない場所しか知らないで、理不尽なままこの世界とさようならなんて、私が許さない」

許さない、というのは、子供のことだろうか。それとも暗い底に陥れた人々のことだろうか。
それとも。そのような子供を生み出そうとした、世界そのものに、だろうか。

「……それが、神様のご意向ですか」
「私は人間よ?神様どころか僕だわ」

思わず口にしてしまった。何でもありません、と誤魔化そうとしたけれど、それはできなかった。目を逸らして、地下室の中でも光の届かない暗い隅を見て溜息をついた。

「あなたは本当に神様なのではないかと感じるときがあります。
 独自の思想を持ち、純粋な心だけで助かるはずもない人間を助けました。起こり得るはずのない奇跡を起こしてみせた。
 ……こう見えても、私、人の生死には敏感なのですよ。助からないと判断した人間は、必ず助かりませんでした」

告死天使であることは伏せたが、不自然な言葉には違いない。踏み込まれるか、そういうものだと判断されるか。正直どちらでもよかった。
暫く言葉に悩んでいたテラートだったが、やがてくすくすと笑い始めた。いつもの調子の笑い声だった。

「まるで、本物の神様に出会ったことがあるみたい」
「……それは」

そうだ、と言えなかった。自分が天使だと知られてもいいと思ったのに、答えることができなかった。
神は、存在した。我が主がそうだった。いつも人のために神力を使い、そのために人間の死を糧とした。そうして人間に打ち取られた、我が主が。
口にすると人間への怒りを吐露してしまいそうだった。元々は人間の信仰で我らを生み出したというのに。救済の願いを叶えようとしただけだったのに。

「…………ぅ、」
「あ、気が付いた! よかったぁ、心配してたのよ」

言い淀んでいると、子供が目を醒ましてこちらを見た。濁った蒼色の目はやはり焦点が合わないが、見つけたときに感じた死の気配はすでにどこにもない。一命は取り止めているので、今後は適切な処置をすればいいだろう。

「ティカ、薬茶を温め直して持ってきてくれる? ……温めるくらいならできる?」
「……火をつけるだけならできるでしょう~」

そうしてまた仮面を被り、作り置いている薬茶を温めに行く。目を醒ましたら飲ませられるようにと、テラートが帰ってきてから作っておいたものだ。
料理をしろ、と言われると、私は控え目に言って劇物しか作れない。教えてもらったけれど壊滅的に作れなかった。神父には台所に立ち入りを禁止されたが、テラートの指示だから仕方ないですね。
出ていく前に、一度だけ子供の方を見た。……少しだけ、胸がざわつくような気がした。



誰かが部屋から出て行った。
苦しさはある。けれどそれだけだった。
霞がかった意識で、まだ死んでいないことを理解する。視界は晴れないが、暗い部屋の中に居ることは分かった。
誰かが居る。誰だ。知らない人だ。何かを言っている。頭に入ってこない。
どうして私はここにいる。目の前の人は何をしようとしている。

思い出せ。
この世界は悪意しかない。
誰も私を救いはしない。
目の前の者だって例外ではない。

「――――」

何かを言っている。手を伸ばしてくる。
お前も殴るつもりなんだろう。
蹴って、奪って、踏みにじるのだろう。
させるものか。もう虐げられるものか。

「ゥゥウウウウァァァアアアアッ!!」
「っ!?」

力を振り絞って起き上がり、目の前の人の首に手をかけて、跳ねた勢いのまま押し倒した。
ドンッと鈍い音が響く。目の前の人は石造りの床に仰向けに倒れ、私はそれに馬乗りになる。背中を打ち付けて苦し気に呻いたが、大したダメージではなさそうだ。

「……あらあら、元気な女の子ねぇ」

襲い掛かったというのに、目の前の女は笑っていた。一切の焦りもなく、恐怖もなく、ただいつもこんな調子だと言わんばかりの、穏やかな笑み。
私の方が焦燥を覚える。何故首を絞められようとしているのに逃げない。痛くて苦しくて、死が近づいてくる気配がするというのに。

「ごめんなさい、怖がらせちゃったかしら。
 でもやっぱりまだ心配だわ、だって全然苦しくないもの。私のことがもし憎いなら、元気になった後で手にかけてほしいわ」
「…………お前は、何を言って……?」

衰弱しきった身体では大して力は入らなかった。全力を出しているつもりだというのに、上手く力が入らず震えるばかり。エメラルドグリーンの瞳には、酷い顔をした私が映っていた。

「っ……こ、殺されそうになってるんだぞ、何でそんな、お前は笑ってるんだよ!」
「殺したいの? それなら、いくらでもどうぞ。だけど、死ぬ気はないから、私も抵抗はするわよ」
「てっ、抵抗しろよ、今すぐ! お前おかしいだろ、抵抗するって言いながらなんでなすがままになってんだよ、怖くないのかよ!」
「殺す、と願ったあなたが私を殺したのなら、あなたの殺意にあの世で拍手喝采をするわ。だって私の生きたいという心を、あなたの殺したいという心の方が勝ったってことになる。これってとっても凄いことなのよ!」

何だこいつ。何なんだ。
訳が分からない。殺してどうぞという。だけれど抵抗をするという。
死に対する恐れがない。私によって死が下されようとしているのに笑顔が崩れない。絞め殺そうとするのに、震えてできない。
得体の知れない感情をこいつは向けてくる。言葉の一つ一つに嘘がない。嘘をついているのかもしれないけれど、悪意の類が一切読み取れない。だから余計に読めなくて恐ろしい。

「テラート様!?」

手間取っていると、バァンッと大きな音を立てて扉が開かれる。壊れそうな勢いだったから、跳ね返った扉がキィキィと軋む。
離れなさい、と片手に持っていたナイフを私に向けてヒュッと投げる。勿論この姿勢で避けれるはずなどない。身体が反応できるはずもなく、私の身を的確に貫いた。
……と、思ったときには、キィンと甲高い金属音が響いた。壁にナイフが当たったのだとすぐには理解できなかった。

「こら、ティカ! お客様とじゃれ合ってるだけなのに、危ないじゃない!」
「じゃれ合っ……!? どう見ても押し倒されて、首を絞められていましたが!?」

暖かさが身を包んでいる。耳元で凛とした声が喚く。
今入ってきたやつが物を投げる動作を取ったとほぼ同時に、反射的に私を抱きしめて身体を引っ張り、ナイフを躱させた。目の前の女の上で潰れたようになったが、痛くはなかった。首にかかっていた手も離れてしまっていた。

「大丈夫だった? いきなり酷いわよねー、ちょっと遊んでいただけなのに」
「おかしい。大きな音が聞こえたから慌てて駆け付けたのにこの言われよう。私が悪いんですか?」

ティカと呼ばれた女は腑に堕ちなさそうに銀のナイフを拾いに行く。服の裾で埃を落としてレッグホルダーにしまった。

「ところで薬茶は?」
「……心配になって戻ってくることを優先しましたぁ~ そしたらぁ じゃれ合ってるって言われたんですよねぇ~ 私命の危機かと思ったんですよぉ~ でもぉ、じゃれ合ってたんですねぇ~」

にこにことしながら恨みたっぷりに答える。えぇ今度こそ行ってきますよ、もう大きな音がしても戻ってくるものですかと愚痴を零しながら出て行った。
部屋の中がしぃんと静まり返る。抱きしめられたままで、この体勢から動けなかった。

「…………どう、して……」

……訳が分からなかった。
ティカの行動の方が理解できた。殺そうとしている者を殺そうとする。そうして身を守る。やられる前にやる。ごくごく自然な行動理由。

「……何で、お前は……私を助けたんだ……」

そんなもの、と強く抱きしめられる。
抵抗はできなくて、なすがままにされる。

「私があなたを、生きるべきだと定めたから。
 だから何があってもあなたを死なせない。あなたが死ぬべきそのときまで」
「……私は……、……お前を、殺そうと……したんだぞ……?」
「生きたかったから。そうしないと殺されると思ったから。だから殺そうとした。
 ……今まで大変だったんでしょう?たくさん痛い目に遭って。もう大丈夫よ、何かあったら私が守ってあげるから」
「っ……なんっで、何で赤の他人に、そこまで!」
「あなたは私の心を揺れ動かした。強い感情で、私の心を揺さぶった。その時点で、私にとって赤の他人じゃないのよ」

そうして一段と強く抱きしめられて、こんな姿勢のまま、目の前の人は聖歌を歌い始めた。
絶対に息苦しくなって上手く歌えないはずであろうそれは、祈りとして歌うから苦しくないと後で教えてもらった。どこまでも自然で、母が子をあやすような優しい調べだった。

『All the birds of the air fell a-sighing and a-sobbing,
 When they heard the bell toll for poor Cock Robin.』

誰が殺したクックロビン。駒鳥の死を追悼する童謡。それを彼女が聖歌として歌う意味はまだ分からなかった。
何も言えなくなって、こみあげてくるものが分からなくて。離れたくなくて、このままで居てほしく、理解する。

この人は、私を救ってくれるのだと。
誰も助けてくれないこの世界で、この人は助けてくれるのだと。
まるで神様のような、この人だけは。
そう思ったら、涙が止まらなくなって。もう暴力に、悲鳴に、自身の存在否定に、何も怯える必要はないと思い知らされたので。

「ぅうっ…………、ぁ……っ……、……ぁああああぁあああっ!!」

駒鳥の胸は、赤色だ。駒鳥の胸が赤いのは、神の額から茨の棘を抜こうとして、その血に染まったためだと言われている。なんて、そのとき私は知らなかったけれど。
こうして手を差し伸べて、沢山の『赤』を、この人は受け止めてきたのだろう。けれど決して私たちの『赤』に染まることはなく、彼女の『赤』のままである。その赤は、本当に神の与えた赤なのかもしれない。この人は、真っ赤に染まった駒鳥の生まれ変わりなのかもしれない。
この人は、神様なのだと思った。

  ・
  ・

あれから二週間が経ち、テラートが拾った女の子は身体の方はすっかり回復した。よほど長い間虐げられていたようで、心の方はもっと時間がかかるだろう。手を揚げると反射的に身を丸め、夜はよく眠れないことが多い。テラートに負担をかけるわけにはいかないので、睡眠を基本的に必要としない私が傍についている。しかし、酷く取り乱しているときはどうしてもテラートを起こして宥めさせてやる必要があった。
彼女はテラートには心を開いたが、私にはまだ強い警戒心が残っている。あの子にとっての初めましてがナイフの投擲だったので、当然といえば当然だが。

「ふぁ……流石に眠たいわね」
「ロクに眠れていませんし~……礼拝の方はこちらで対処しておきますから、今日のお昼は一度ゆっくり眠ってこられてはどうでしょうか~」
「そうしたいけれど、何故か私に懺悔を聞いてほしいって人が多いでしょう?」
「う~ん、そこで『何故か』と言ってしまうあたり流石ですねぇ……」

お昼を食べ、片付けが終わり午後の来訪者に備えようとしたところ、机で大きな欠伸をするテラートに、私は小さくため息をついた。明らかに寝不足で疲れが溜まっている。
ただ話を聞くだけではなく、人々が求める回答をテラートは見つけ、掲示することができる。本人は話を聞いているだけのつもりらしいが、真似ができない芸当だ。だからこそこうしてテラートに人が寄ってくるのだが、彼女にはその辺りの自覚がない。
自覚がないから、いつだって説くのは彼女の抱いた心だ。嘘偽りのない純粋な心に、人は人らしからぬものを見出し神であるかのように錯覚する。彼らは決まって自分にとって都合のいい存在を神と定め、救いを求める。どこに行けど人間とは変わらず愚かだと思う。
今日も来訪者は多い。午後も頑張りましょうね、なんてほざくものだから、顔には出ていないけれど顔が赤くなったようだった。名前を呼んで、その腕を掴んで地下室へと連れていく。目を見開いてこちらを見ていたが、部屋に着く頃には微笑みに変わっていた。まるで我儘な子供を見るような目で私を見ている。それが気に入らなくて、噛み付くように言葉を投げた。

「いいから無理しないでください。来ている人には私が休ませていると言っておきますから」
「そっくりそのまま、あなたに返したいわ。あなたもロクに寝ていないでしょうに。私だけ休むなんて、不公平だわ」
「私は……別に、そこまで眠らなくても大丈夫な体質ですので。あなたはそうではないでしょう?」
「なので、今日はお休みにしましょう! 教会は本日午後はお休みにします!」

あっ、そう来ます? ちょっとそれは予想斜め上だったなぁ。
判断すれば行動が早いのがテラートだ。神父様に言ってくるわねとルンルンで部屋を出て行った。彼も無理をしていると分かっているので、恐らく言い分は通ると思うけれど。
相変わらずあのお方は……と、ため息をついてちら、とベッドの方を見る。連れて帰ってきた女の子がそこに居て、目が合った。びくり、と身を震わせてこちらをじっと見ている。
彼女は教会を開放している時間は邪魔にならないように、いつもここで待っている。人と顔を合わせることはまだできないため、何もできないならせめて邪魔にならないように、とじっとしているのだ。

「……やっぱり、テラート……無理、してるの?」
「あなたのせいですよ。無理は……していないでしょうけど……」

彼女は自己犠牲的なようで自己犠牲的ではない、と私は思う。自己犠牲で無理をするならば、テラートを目当てに教会へ来た者へ説法を行っただろう。されど彼女は教会をお休みにしてしまおう、と大胆な回答を掲示した。私たち誰一人として負担が大きくならないように。来訪者の人達も、本当に説法が今すぐ必要な人がいれば彼女は教会の地下へと誘導するだろう。どうやって理解してもらうかはあまり考えたくないが。読めないトンデモ理論で殴ってそうだし。
この子も迷惑をかけていることは分かっているのだろう。俯いて、唇を噛んで黙っている。あそこで死んでいた方がよかったのだろうか、と考えているような気がして殴ってやりたくなった。

「……あなたは本来、救われるはずのない命だったんですよ。えぇ、だって、この私がそう判断したのですから」

告死天使が下した死の判断は絶対だ。死を告げることが仕事の私が、人の死を見誤るなどあり得ない。それを彼女は何の代償もなく覆してみせた。神という彼らの都合のいい存在に頼らず、一人の感情論で。
不愉快なんですよ、と小さく呟いた。この子に当たったところで何も解決しない。ただ死にかけて、テラートに助けられただけの、運のよかった子供。今彼女から私はどのように見えているのだろう。見下し蔑む、シスターには到底似つかわしくない人間に見えるのだろうか。

「ですが、テラートがあなたをどういうわけか救った。いえ、理由なんて分かりきっている。あなたを助けたいと強く願ったことで、彼女の法力が奇跡を起こした。それだけに聞こえますが、それだけではない。
 人が起こし得ない奇跡を、あの方は起こした。死の運命を捻じ曲げるほどの、強い意志と感情で。それを受けたあなたが、その命を無碍にすることは絶対に許さない」

死を告げる者として、忠告する。我々でも起こし得なかった奇跡を受けた者が、それを踏みにじるような行為を取るなど許せない。顔を近づけて、目を逸らさせない。
逸らすだろうと思っていたが、そんなことはなかった。胸に手を当てて、そうだったんだと言葉を漏らした。

「……私は、本当に感謝しても、しきれない……だから、あの人の迷惑になることは、耐えられない……だけど、私には何もない。力も、知恵も……私には、何一つできることがない」

口にこそしなかったが、悔しそうに語る言葉から、やはり死んだ方がよかったのではという悩みは持っていたと考えた。助かってしまったから、恩人に今迷惑をかけて、重荷になってしまっていると。
どうすればいい、と今にも泣き出しそうな声に知りませんよ、と言いかけて……一つ、閃いた。愚かな人間を救うことには怒りを感じる。全て根絶やして殺してしまいたい。けれど、そのようなことをしてしまえば私は生きていけない。故に共存をしなければいけない。
では、どのような人間であれば、私は存在を肯定できるだろうか。答えが一つ、見つかった。

「魔法を扱ってみませんかぁ?
 人間は魔法石などの外部魔力を用意すると、努力次第で誰でも魔法が扱えると言いますしぃ……根気はありそうですから、教えてあげますよぉ」

悪い提案ではないはずだ。精神的な傷が大きく、独り立ちには時間がかかる。もしこの先私のように、彼女が私たちと行動を共にするつもりなのであれば、都合がいい。

「―― テラート様の、お役に立ちましょう?」

簡単なことだった。彼女の役に立つ道具に仕立てあげればいい。それならば私はこの存在を肯定できるだろう。テラートにとって都合の良い人間は、私にとっても都合のいい人間だ。道具は多ければ多い方がいい。
返事は想定通りだった。彼女に恩返しをしたいと考えるのであれば、決してこの言葉を否定しない。彼女は目を輝かせて、首を縦に振った。

  ・
  ・

私はテラートに命を救われた。
テラートに拾ってもらった私は、テラートに読み書きや教養を、ティカに魔法を教えてもらいながら教会で暮らすようになった。私はテラートやティカのように上手く人と関われないため、人と会わずにできる手伝いをさせてもらっている。
何故路上で倒れていたか、の経緯も二人には話した。凡そ推測が付いていたそうで、答え合わせのように話を聞かれた。大変だったわね、と肩をとんとんと叩いてもらった。

神は人間を全て平等に考えるから人を裁かない。故に人の心が人の生死を決める。人は神の僕であり、裁きの代行を行うのだ。テラートは信じなくてもいいけど、と言ったが、その教えのもと私は助けられた。信じないはずがないし、信じたかった。信じることで、あなたの手伝いができるのであれば、何だって自分の物にしたい。
それからこの教会では表には出さないが、人を救うために人を殺すことがあるらしい。話を聞いたときは恐ろしく感じたが、すぐに納得させられることになった。

「…………」

今、私は物言わぬ死体を見下ろしている。明かりのない部屋で、まだ生暖かい赤を零すそれに目を細める。手に持っている質量の極めて少ない魔法の鎌から、ぽたりぽたりと同じものを零し水たまりを作っていた。
1年。たった1年だけ。あっけないものだった。私の初めての仕事がこれほど簡単なものだとは思わなかった。あれほど私を虐げて、疎んだというのに。私を見るなり顔を青ざめて、死にたくないんだ、助けてくれ、なんて都合の良い命乞いをして。私は10年、助けを求め叫び続けていたというのに。

「まだ魔法に危うさこそあれどぉ……人の命を刈り取るほどには上達しましたね~」

ふわり、すぐ後ろにティカが降りる。まるで鳥が空から舞い降りるように静かで、美しい動作だった。ぺろりと口を舌でなぞり、三日月を作っていた。
教会で行われる、救済のための殺人。1を救うために1を殺す。救済のために、罪を犯す。テラートはそれを罪を被るとは言わず、罰を下すと表現する。罪意識などどこにもなく、心からこれが神の僕として成すべきことと考える。いつまでも、純粋な笑顔で。


「初めてのお仕事、どうでしたぁ?」


初めての仕事を出したのは私だった。そして、こなすのも私だった。私を虐げた両親が、私はどうしても許せなかった。死の目前まで追い込んでおいて、私のことを探しもせずのうのうと暮らしていた。ティカが暗殺の申し出を行ったが、私がやりたいと頼んだ。
そうして、初めての仕事としてはちょうどいいと、ティカのサポートもあり無事私の復讐は果たされたのだ。


「……テラートの言っていることが、よく分かった」


人を殺すことは恐ろしい。人を殺して救済を説くなど、できるものなのか。信じようとしたけれど、躊躇いは私の影を縫っていた。相反する事象であり、本能的に恐ろしいものだと思考する。人は誰しも、それを当たり前だと言うのだろう。


「いいえ、まだです。まだ真に理解していませんよ」


トン、と胸を指で突く。暗い部屋の中だというのに、蝋燭の火が揺らめくように瞳が煌めく。だけれどその蝋燭の火は照らすためのものではなく、命を奪う人魂の揺らめきだと思った。直に分かりますよぉ、と笑った彼女は、ゆっくりと母親の死体へと近づいた。


「ところでぇ……命の数、2つだと思っていたら3つだったんですねぇ」
「……え? 殺したのは、父親と母親で……」
「妊娠、してましたよぉ。まあ、母体がこのざまですのでぇ……私としては都合いいんですが」


ナイフを取り出し、裂いていく。真っ赤になっても、鉄の匂いにまみれてもお構いなしだった。別に確認しなくてもいいだろうに、わざわざありましたよと『中』を見せてきた。
私は吐き気すら忘れて、それを見て。嫌悪感を抱くはずの匂いにも、お構いなしで。犬であれば、唸り声をあげて吠えたてていただろう。猫であれば、毛を逆立てて爪を立てていたことだろう。
私は、人間だったから。

「―― ッ!!」

持っていた鎌を、力任せに突き立てた。
一度ではなく、二度、三度、四度と。声は出なかった。涙も今更出なかった。
身体を巡る激情が気持ち悪い。何度も何度も短い息を繰り返す。息の数より多く、鎌で斬って刺して裂いて、ぐちゃぐちゃにして、訳が分からなくなって。
私の中でどんどん空白が作られて、その空白を何で埋めればいいのか、よく分からなかった。



「おかえりなさ……真っ赤!! えっ、大丈夫!?」

ティカは腹を捌いたし、私は魔法の鎌を何度も突き立てたのでどちらも血に染まっていた。教会の外で待っていたテラートは、私たちの帰還を確認すると小走りでこちらへ迎え出た。返り血なので大丈夫ですよ~とティカが言っても聞かず、外傷がないかを調べる。何も見つからなければほっと胸をなでおろして、改めておかえりと微笑んだ。

「……いつも寝ないで外で待っているのか?」
「そうなんですよぉ~ 物好きでしょう?寝てていいって何度も言ったんですがねぇ~」
「だって怪我して帰ってくるかもしれないし、私一人だけ寝ているなんてできないでしょ!」

当然だが、暗殺は命がけの仕事で極秘に行われるものだ。誰かに見られてもいけないし、感づかれて返り討ちにされてもいけない。飛ぶ鳥が跡を濁さないように、私たちも何も残してはいけない。今回だって、派手にやってしまったが綺麗にしてあの場を去った。目の前の人が暗殺の本質を分かっているのかは分からないが。

「見つかって怪しまれると困るのでぇ~ 寝ていてほしいのですがぁ~」
「いーえ、私は一番にお迎えするっていう大役があるの! どんな理由であれ譲らないわよ!」
「そういうことを言っているんじゃないんですけどぉ~……」

先に着替えを持ってくるわね、と教会の中へ戻っていく。それを外で待つ必要はなかったのだが、どちらも歩み出すことはなく、ティカが私に話しかけた。
きっとこんなにも、月が明るく照らしているから。

「……凄いでしょう、あの人。
 人を殺したんですよ、私たち。人を殺せるだけの力があるんですよ。だというのに、何の恐怖もなく、絶対の信頼を置いてくれるんです。そうして、変わらず純粋に、私たちを友だと説く」

そのときのティカの感情を、どう表現していいのか分からなかった。きっと彼女もまた分からなかっただろう。だけど語り掛けられた声は、落ち着いていて穏やかだったので。

「救われたでしょう?」

理解した。はっきりと。
私の中で作られていた空白が、一瞬にして埋められた。
この救済とは、憎悪や後悔を罰して赦すことなのだと。そうして過去の呪縛を断ち切り、例えそれが咎となろうとしても、未来へと歩ませるのだと。
彼女は、私たちに『死をもって』『生かそう』としているのだと。
そんな咎人の私たちにも、彼女は純粋なまま抱きしめて、祈りの歌を歌うのだ。

「……あぁ」

そうして、変わらない彼女は扉からひょこ、と顔を出す。手には着替えを持っていた。入ってこないから不思議になって戻ってきたのだろう。
その姿があまりにも愛おしくて、美しくて、毒のように狂わされる。
戻りましょうかぁ、とティカが歩み始めたので私も歩き始める。月の光の下で、私たちだけが息をする。

「―― トリサ」

それは、テラートが私に与えてくれた名前。
とある偉人の名前と、ここに来た人が3人目だったから3の意味を乗せて。過去の恐怖も傷も取り去って、新しいあなたになればいいと。

「これからも、よろしくね」

この純粋な笑顔を。私の命の恩人を。
これからこの先ずっと、守っていける私になりたいと思った。



死をもって生を与える。
ここには生を与える神様がいる。
ならば私は、彼女の説く死を肯定しよう。真っ黒な衣を纏い、余闇に溶ける姿になる。見る人はそこから、一つの存在を想起する。

「……その恰好も、様になりましたよねぇ」

ティカが笑う。次の標的はあれですよ~、と上機嫌に指をさす。首を縦に振り、教えてもらった呪文を唱える。



あなたが誰かの生を願うのなら。
あなたが誰かの死を願うのなら。
あなたの願うままに、私を使ってほしい。


―― 私はあなたに仕える死神となろう

 

 

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